2018年12月02日

岐阜県山県市<中洞白山神社>明智光秀公の墓 (武将のお墓参り40)

美濃国ゆかりの武将のお墓参り「明智光秀公の墓」
2018.12.2(日)参拝


◆岐阜県山県市中洞の(中洞)白山神社に「明智光秀公の墓」がある。
国道256号の美山第一トンネルを北に抜け、右(東)に曲がると直ぐに細い旧道に入る。
旧道を左に進み、国道下を潜る。


ナビなら、「山県市中洞932-2、ウエルカモ美山(旧美山バルバリー)」を目標にし、
その前の道を北に進むと良い。

◆突き当りの山麓に白山神社がある。


◆橋を渡ると神社の境内に入る。午前9時半頃に到着、さほど広くない境内に車を停めた。


◆神社の入口左側に案内板「明智光秀公の墓」が立っている。


そこには次のように記されている。
「明智光秀公の墓(古文書を要約)
この地、中洞古屋敷白山神社の一角にある高さ一0六cmの石塔と高さ一一二cmの五輪の塔は、
まさしく明智光秀公の墓なのです。

天正十年(一五八二)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者荒木山城守行信でした。
光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」、恩義を深く感じての「深」で、
自らも荒深小五郎と名乗り、西洞寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいました。

その後、光秀は雲水の姿となって諸国遍歴に出たのですが、
十八年後の慶長五年(一六00)関ケ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発しましたが、
途中根尾村の藪川の洪水で馬と共に押し流され、おぼれ死んだため、
死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬しました。

以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回の供養祭を行っています。

光秀公の義弟、明智孫十郎直経の墓は、この地より国道に出て一Km北へ行ったところに
ありますのでお帰りの際、お立ち寄り下さい。  山県市」

◆案内板の右後ろに「光秀公ゆかりの うぶ湯の井戸跡」とあり、木製の井戸枠がある。


◆境内入口の右側には、木製の案内板があり、
「荒深小五郎の名でこの地に住んでいた 明智光秀公の墓⇒ 
供養祭 四月第二日曜日、十二月第一日曜日」と記されている。


◆境内に数台の車が停まっており、ちょうど地元の方たちが供養祭の準備をしているところだった。
お忙しいとは思ったが、声をかけたところ、チラシ「明智光秀公ゆかりの地を訪ねて」をいただき、
お話を伺うことも出来た。感謝。


◆供養祭の準備をしている方たちは、光秀公の子孫である荒深氏だそうだ。
供養祭は午後二時からで、私は都合がつかず参加できなかった。残念。
なぜ年二回も供養祭があるか尋ねたが、よくわからないそうだ。

◆供養祭が行われる参集殿


◆参集殿の左側に建つ「阿弥陀如堂」の扉が開いており、中の宝物を見せていただいた。


◆建物正面の壁に「阿弥陀堂の由来」が貼ってあり、次のように記されている。
「阿弥陀堂の由来
天正十七年(一五八七)光秀公の母が明智頼武(光秀公の弟)に土岐祖先の菩提を弔うため建立した。
母は自ら仏門に帰依し禅の道に一生を捧げ、天文十一年(一五四二)に大源寺を建立し自ら庵主となり、
後に弟子の月定宗輪禅尼に譲り仏光山西洞寺に入る。(庵の庭)

阿弥陀三尊 一、左尊 木造観音菩薩立像で観音像は両手に蓮台を捧持している姿である
一、中尊 木造阿弥陀如来立像 
一、右尊 木像勢至菩薩立像で勢至菩薩は合掌している姿である 

阿弥陀は観音と勢至を伴って両脇侍として三尊をなしており、
観音は宝冠の中に化仏をつけている、勢至は宝冠に宝瓶をつけている。

阿弥陀如来は西方極楽浄土に往し、四十八の大願がありてその一つである往生願は、
「この如来に念仏するものは必ず極楽浄土へ往き無限の生をうけることができる」と約束されている。
これは所謂来迎菩薩の相という。

また、光秀公は幼少の頃より聡明にして文学軍学兵法を学び、敬神の念も厚く白山神社(氏神)を
崇敬していたため、この白山神社は学問並びに出世の神様と言い伝えられている。」

◆阿弥陀堂内部には、正面に阿弥陀三尊像、
左側面に明智光秀公のご位牌や肖像画などが祀られていた。合掌。(了解を得て撮影)
10時半頃には供養祭の準備が終わり、阿弥陀堂の扉は閉じられ、地元の方たちは一旦帰宅された。


◆「明智光秀公の墓」への入口は、境内入口左にあり、案内板と石柱「灮秀墓」が立っている。
参道沿いには幟「明智光秀公の墓」が立ち並んでいる。


◆参道を進むと右に直角に折れ、緩い坂道となる。杉林の参道の突き当りに墓所が見えてくる。


◆墓所は整備されおり、墓碑と板碑が並んでいる。合掌。


◆明智光秀公の墓碑は、左に五輪塔、右に宝篋印塔。
左後方に石柱があり、「惟任将軍日向守光秀公之墓」と刻んである。


◆板碑には「灮秀卿古墳縁由 當國ノ太守・・・」と桔梗塚の由来を記してある。


◆いただいたチラシは旧美山町(合併して山県市)の発行で、随分昔に作成されたものだ。
表面には「光秀公は山崎の合戦で死んだのではなく、実は、そのとき死んだのは影武者であり、
ひそかに郷里中洞に落ちのびて荒深小五郎の名で住んでいた。」とある。


◆裏面に「明智光秀公ゆかりの地 美山町」として、次の記載がある。
「明智光秀は、美濃国美山町中洞の古屋敷で生まれたのである。

光秀公の遠祖は、土岐氏の流れを組む明智氏の一族で、
土岐美濃守の臣土岐四郎基頼と中洞の豪族中洞源左衛門の娘お佐多(のちに松枝と名乗る)との間に
大永六年(一五二六)八月十五日、長男十兵衛尉として生まれたのである。

また、光秀公の母が懐妊していたとき、岩の上に立って清流に水ごりして、
天下に将たる男子か然らずんば秀麗の女の子を授け給えと祈った行徳岩も
西武芸地内井ノ口用水の下方武儀川左岸にある。

十兵衛尉生まれてから母は中洞古屋敷にある白山神社を崇敬し、学問並に出世を祈願した為、
十兵衛尉は幼少の頃より聡明であったと言われている。
以来この地の山中にひっそりとこもった白山神社は学問と出世の神として地域の人に崇められている。

時を遷て、十兵衛尉七歳のとき、父基頼は病死してしまった。
このとき祖父中洞源左衛門は、亡き基頼の遺托をうけ、美濃国可児郡の明智城に伴い、
明智光綱に預けて,軍学兵法を学ばせ、土岐家の再興を図ったのである。

光綱は、預かった十兵衛尉の利発賢明を喜び、軍学兵法を教えるかたわら
文学をも学ばさんと多治見虎渓山永保寺に通わせたのである。

やがて光綱は、祖父源左衛門に懇願して十兵衛尉を養子として迎えたが十一歳のとき、
光綱は病死してしまった。そのため光綱の弟光安が城主となって、亡兄の志を継ぎ、
十兵衛尉を光綱の後継者として養育に心がけ元服して明智光秀と名づけ、後の日向守光秀となったのである。

明智氏は、土岐氏が衰えてからは、斎藤道三に従い、その子義龍と明智氏は君臣水魚の交わりとなった。
光秀も道三の保護指導をうけて勉学にはげむかたわら戦術兵法、鉄砲術をも伝授し、
また茶道についても京都仕込みの道三から学んだと言われている。

一方斎藤道三は、岐阜城を乗っとり息子の義龍に譲り自分は鷺山城に移り隠居していたところが、
義龍が謀反を起して父道三を攻め殺してしまった。

それを知った明智光安は怒って義龍と絶交するとの使者を送ったため義龍は、光安の態度に立腹して、
三千余騎の兵を立てて長山城を攻めたてた為、「もはやこれまでと知った」光安は、
光秀に「後日明智の家名をあげるため、ひとまずここを落ちのびよ。そしてわが子弥平治光春(秀満)と
甥の次郎光忠をたのむ」と言い残して城と運命を共にした。ときに弘治二年(一五五六)九月二十六日であった。

光秀は逃れて揖斐郡谷汲村府内に身をよせたが、やがて京都嵯峨の天龍寺へ落ちのびた。
ここに落ち着いた光秀は光春を伴い諸国修業の旅に出た。

北は越後の地で上杉謙信の弓矢の道を学び、駿河では今川義元の仕置を学び、
さらに伊勢から泉州堺に出て学識経験を積むこと六年、永禄八年(一五六五)三十八歳で
越前一乗谷城主朝倉義景に仕官し、十五代将軍足利義昭にも仕官、

ついで永禄九年(一五六六)信長に仕官して順次出世、
近江坂本城十八万石、丹波亀山城三十六万石併せて五十四万石の大名に累進した。

時を経て、天正十年六月三日(一五八ニ)羽柴秀吉との山崎の合戦に光秀利あらずして勝龍寺に引き上げ
最後の戦に末子の乙寿丸を伴い共に自害しようと近州観音寺に待期していた。
その時家臣の荒木山城守行信たちが馳せ参じ、
「まだ最後の時にあらず、此の処を一時のがれて再興を謀り給え」と光秀の脱げ捨てた鎧冑に具足を着て
身代わりとなり家来共々敵中に討ち入りて華々しく戦った。

山崎の合戦で、光秀は死んだのではなく、乙寿丸、中洞又五郎と共に百姓姿となって、
ひとまず洛中し大徳寺で味方の最後を見届けていた。
翌日、山城守は光秀の影武者となって山崎で討死した。

光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと自ら恩義を深く感じて、
荒深小五郎と名乗り中洞又五郎に導かれ郷里美濃国中洞に帰って隠宅を建て乙寿丸と共に住んでいた。

天正十七年(一五八九)乙寿丸は十五歳に成長し荒深吉兵衛光頼と名乗った。
光秀は後々のことを中洞又五郎に托して雲水の姿となって諸国遍歴に出るかたわら
羽柴秀吉の敵と味方の大名を探しまわった。

慶長三年(一五九八)春江戸に至り、ひそかに家康と逢い諸大名の様子を談ずると家康は大いに喜び、
光秀の子孫を大名に取り立てることの約束をして帰国した。

後の慶長五年(一六00)八月関ケ原の合戦に東軍に参加するため一族郎党を引きつれて出陣の途中、
おりからの増水した藪川(根尾川)で馬共に押し流されて水死した。
時に慶長五年九月十五日、七十五歳であった。

その遺骸を又五郎らが持ち帰り中洞古屋敷に葬った。これが「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀公の墓である。」


◆昔は荒深氏の住む民家が神社周辺に何軒かあったが、今は少し離れた所に住んでいるそうだ。
昔は絵馬を授与していたが、今は境内に掛けられている古い絵馬で偲ぶしかない。

◆境内入口右側に「光秀公が生まれた庵の庭跡地⇒ 山中」の案内標識がある。
その光秀公の母ゆかりの地は、神社の北東の山上にある平地で、登山道があって行くことが出来るそうだ。
矢印の向きは間違っている。


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:45Comments(0)武将のお墓参り

2018年07月23日

岐阜県関市迫間<大雲寺> 旗本迫間大嶋家墓所 (武将のお墓参り 39)

2018.7.18訪問 
<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
★(迫間)大雲寺 岐阜県関市迫間1184
旗本「迫間大嶋家」の菩提寺・歴代墓所(初代光俊公~七代義順公)


◆訪れた7月18日は、迫間大嶋家初代(雲四郎)光俊公の命日で、
毎年「十六善神祭」が行われ、寺宝の公開と法要がある。

◆大雲寺は、関市内中心部にもあるが、そちらは大嶋雲八光義公(光俊公の父)の菩提寺・墓所である。
こちらは、関市の東南部に位置し、周りは山の静かな里である。

◆寺の周りに「大嶋雲四郎」ののぼりが立ててあり、
境内入口に「十六善神祭」などのポスターが掲示してあった。


◆今年の「十六善神祭」の内容は、次の通り。
13:00~13:30 ミニコンサート「クラビノーバ演奏で先祖を偲ぶ」
13:30~13:40 解説「豊中市大島町 大島鳩恩会来訪と六代目義苗公」
13:40~14:40 歴史講座「大嶋公と美濃の武将たち」
14:40~15:00 大嶋公供養、15:00 お餅配り

◆本堂で、寺宝の「十六善神」と「十六羅漢」の軸、六代義苗公愛用の鎧兜が公開され、
間近で拝見することができた。

十六羅漢は、個性的な姿でユニークだ。


◆十六善神は、雷除けに御利益があるそうで、手作りのお守りや御札を販売していた。
落ちないということで、合格祈願の受験生も求めるそうだ。

◆本堂には、大嶋雲八光義公(光俊公の父)と迫間大嶋家歴代の御位牌が祀ってあり、
本日の司会を担当される酒井氏(関市甲冑同好会)の案内で拝見することが出来た。

◆本日は、大嶋雲八光義公と大嶋雲四郎光俊公(光義公の三男、迫間大嶋家 旗本初代)の
御位牌は、ご本尊の前に並べてあった。合掌。


◆他の方の御位牌は、ご本尊の左側にあり、6段に並んでいた。合掌。


◆本堂の壁に、「大嶋家系図」や「大嶋雲八光義公」「大嶋雲四郎光俊公」他の略歴が掲示してあった。
系図などの一部史料は配布され、持ち帰ることが出来た。ありがたい。



◆本堂のすぐ左手に大嶋家歴代の墓所があり、本堂からも立派な墓碑を見ることが出来る。


◆墓所へ行くには、本堂左に建つ観音堂の左の3段の石段を上る。


◆観音堂の後ろに回り、突き当りの山際が迫間大嶋家の墓所である。


◆立派な墓碑が3列に並ぶ。合掌。(境内も墓所もきれいに整備されている。)
当主たちの墓碑は上段で、他の墓碑よりも立派だ。


◆前列右端に石柱で囲まれた墓所があり、真ん中の石柱に「光重公墓」と刻まれている。
これは、大嶋光俊公(別名は光重)の墓である。囲いの中に墓碑はなかった。


◆上段の当主たちの墓碑は、9基並んでいる。
右から順に、七代義順公(よしのぶ、高勝院殿)、二代義治公(よしはる、大久院殿)、
初代光俊公(みつとし、巨積院殿)


◆次(右から四番目)は、大嶋雲八光義公(大雲寺殿)の墓碑である。


◆次は、二代義治公の弟光隆公(養浩院殿)、三代義雄公(よしお、性圓院殿)、
四代?の室(妙成院殿)、四代義高公(よしたか、大智院殿)、五代義敬公(よしゆき、大通院殿)、
六代義苗公(よしみつ、法名は削れて判読不可)である。


◆本日は縁あって、「大嶋雲四郎光俊公」の401回忌法要に参加することが出来た。
寺宝なども拝観できた。関係者の方々に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:35Comments(0)武将のお墓参り

2018年07月16日

岐阜県羽島市<願教寺> 稲葉山(岐阜)城主「斎藤龍興公」墓所その2 (武将のお墓参り38)

2018.7.16訪問
≪宝積山 願教寺≫ 岐阜県羽島市足近町市場71
織田信長公に追い出された斎藤龍興公(道三公の孫)のお墓参りをした。


◆『足近町歴史点描』に次のように記載されている。
【・稿本美濃誌には次のように記している。

「天正年中、斎藤竜興が石山で雑兵に混じって信長と戦った時に、
勢州長島願教寺第三世了願もまた石山にあって竜興と好を結んでいた。

天正八年信長と石山の和解が出来て共に美濃に帰り、当(足近)中島に住んだ。
天正十年五月五日、竜興が自刃したので了願は、佐波村字本養に本養寺と云う
元天台宗の寺があり、荒廃して塔頭誓浄坊だけが残っていたのと生国の願教寺を
移し合せて一宇を建立し、願教寺と称した。同寺に斎藤系図が残されている。

境内に竜興のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)あり。
「華貞院竜興 天正十年五月五日」

・寺に斎藤義竜の位牌「円城院殿釈義竜 永禄四年五月十六日薨」と記され立派。

・竜興の墓は二説ある。羽島説では「越前朝倉氏滅亡の時、竜興自身は甲冑を
臣下に着せ替えて戦死とみせかけ影武者となる。やがて石山において再び信長と戦う。

願教寺第三世了願を伴い美濃国直道村(現 足近町直道)へ来る。
この地にてひそかに再興の機をうかがうが、事ならず。天正十年五月五日自決する。
よって、この願教寺に墓がある。」

墓が小さく作られているのは、戦国の世において敵側の目をはばかるためと言われている。】

◆『羽島市史』にも同様の記載がある。そこで、願教寺を訪れることにした。
お寺は、神社の隣りにひっそりと建っていた。

◆ご住職にお会いしてお話を聞くことができ、
龍興公の五輪塔や斎藤氏三代の御位牌を拝見することが出来た。
そして、写真撮影とブログ掲載も快く了解いただいた。

◆ご住職と一緒に本堂へ入った。中央にご本尊、左に斎藤氏三代の御位牌が並んでいた。
ご本尊に合掌。

◆御位牌の後方には、東洋大学の井上氏書の掛軸「前金華山城主 斎藤家菩提所」と
「源平 洲俣合戦古跡」が掛けてあった。


◆御位牌は、右端が斎藤義龍公で表に「圓城院殿釋義龍」、
裏に「永禄四年五月十六日薨 謹菩提所願教寺納之 齋藤氏嫡流」と記されている。

真ん中が龍興公で表に「華貞院殿釋龍興」、裏に「天正十年五月五日薨 菩提寺納之 齋藤氏一族」、

左端が小兵衛義仁公(龍興公の子)で表に「圓融院釋義仁」、
裏に「寛永元年六月十二日卒 爲小兵衛菩提願教寺納之 齋藤氏」とある。



御位牌は、後世になって子孫の方が作ったらしい。

◆龍興公のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)は、
盗難防止のため本堂内に安置されており、奥から出して見せていただいた。
高さ35センチ程の大きさであった。合掌。


◆当寺は、大正時代に現在地へ移転。
旧地には龍興公の墓である塚があり、その上に大きな松と一石五輪塔があったそうだ。
移転後は農地となり、全て跡形もない。

旧地の墓地から骨片を集め、現在地の鐘楼南の「南無阿彌陀佛」石碑下に納めたそうだ。合掌。


◆ご住職の親切なご案内のおかげで、本では分からない事を知ることが出来た。
また、ご夫人の冷茶の御接待がありがたかった。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:02Comments(0)武将のお墓参り

2018年06月09日

岐阜県恵那市岩村町<乗政寺城主墓地>岩村城主丹羽家廟所&松平家乗公廟所 (武将のお墓参り37)

美濃国ゆかりの武将のお墓参り
2018年6月5日訪問

岐阜県恵那市岩村町殿町122、恵那特別支援学校の北側
≪乗政寺城主墓地(大名墓地)≫の岩村城主丹羽家廟所と松平家乗公廟所


◆NHK朝ドラ「半分、青い。」で注目を浴びている岩村を訪れた。
その日は、ちょうど本町商店街で俳優の佐藤健君らが撮影をしているところだった。
ロケ地を遠巻きに見てから、商店街で五平餅を食べた。その後で岩村城主の墓参に向かった。

◆坂に沿って商店や飲食店が立ち並び、坂の上は岩村城跡に繋がっている。
岩村城跡の麓、商店街の外れに乗政寺城主墓地がある。
乗政寺城主墓地は、案内パンフレットには「大名墓地」と載っている。
そして、山の斜面にある墓地の下方入口には、「乗政寺山墓地」と刻んだ石標がある。


◆道路から坂を少し上ると、案内板「岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地」があり、
次のように記してある。
【慶長六年(一六0一年)松平家乗(大給松平本家)が岩村城主となり、この地に龍巌寺を建立した。
寛永十五年(一六三八年)に松平氏は浜松(静岡県)へ移り、
三州伊保(愛知県豊田市)から丹羽氏がきて妙仙寺とした。

元禄十五年(一七0二年)に丹羽氏は越後高柳(新潟県)へ移り妙仙寺も同地へ移った。
丹羽氏の後へ信州小諸(長野県)から大給分家の松平氏が移り、
小諸城内にあった乗政寺をここへ移した。

この地は由緒ある地で城主や家臣の墓が多い。
乗政寺は明治四年(一八七一年)に廃藩置県となり住職も死んだのを機会に廃寺とし、
寺佛等を縁の深い隆崇院へ移管し建物も壊した。

城主の墓は、松平家乗、丹羽氏四代、分家松平氏の乗薀嫡子で林述斎の兄の乗国ほかがある。
特に丹羽氏の墓は巨大であるが、若くして死んだ丹羽氏明の墓は六地蔵を配してある。

分家松平氏家臣の墓も多く、役家の丹羽瀬、大野、佐藤家等や講談で知られた小兵の居合抜きの
名人「美濃の小雀」こと井野猪左衛門の墓、東京の実践女子学園の創設者で、
愛国婦人会長となった明治、大正の女傑下田歌子女史の墓もここにある。

この墓地一帯の山を今も乗政寺山と呼んでいる。】

◆岩村城主丹羽氏の廟所は、案内板の左にある階段を上り、突き当りを右に上った所にある。


◆入口に「岩村城主 丹羽家廟所」の石柱が建つ。廟所は山腹に横に広がっている。合掌。


◆右方に氏信公(左側)とその母(右側)の墓碑が並ぶ。


案内板に次のように記してある。
【丹羽氏信墓 丹羽氏初代岩村城主 三河伊保(現豊田市)より転封し、正保三年(一六四六年)没。
●●当初の御霊屋が朽ちたので、約百年後に法名と経過を刻んだ石柱を西川玄益が建てた。】

【丹羽氏次室 丹羽氏信母墓 長久手の戦いで大功たてた丹羽氏次の室で岩村城主丹羽氏信の母である。
当初の御霊屋が朽ちたので約百年後に法名と経過を刻んだ石柱を西川玄益が建てた。】一部判読不可

◆石柱「岩村城主 丹羽家廟所」の後方に、丹羽氏定公の墓碑があり、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏定墓 丹羽氏二代岩村城主 明暦三年(一六五七)没。桃蕚山妙法寺を開創した。
当初の御霊屋は朽ちたので、約八十年後に法名と経過を刻んだ石柱を●●】一部判読不可


◆その左方に四基の巨大な墓碑が並ぶ。右端「實相院殿・・・大姉」は三代氏純公の室、
右から二番目「曹渓院殿・・・大姉」は初代氏信公の室の墓碑である。


◆さらに左方には、丹羽氏家臣の墓が七十基ほどが積まれた無縁供養塔がある。
無縁供養塔の左奥にお地蔵さんがあり、その後方にも丹羽氏の墓碑が並ぶ。


◆右方には丹羽氏春公の墓碑があり、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏春墓 丹羽氏初代岩村城主氏信の三男で分家した。四代岩村城主丹羽氏明が急死したので、
氏春の次男氏音が養子し五代岩村城主となった。元禄九年(一六九六)没。】


◆その左は丹羽氏明公の墓碑で、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏明墓 丹羽氏四代岩村城主 貞享三年(一●八六年)疱瘡により二十歳で没す。独身。
若くして没した●●、地蔵、灯籠等を配し大●●かで、もっとも立派で●●】一部判読不可


◆お地蔵さんの真後ろは丹羽氏純公の墓碑で、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏純墓 丹羽氏三代岩村城主 明暦三年(一六五七)家督相続。延宝二年(一六七五)岩村にて没す。
三十八歳。氏純は大将陣に五仏寺を建て秋山信友夫妻らの霊を弔った。】 


◆その左方「芳春院殿・・・大姉」は、二代氏定公の室の墓碑である。


◆岩村城主松平家乗公廟所は、案内板「岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地」を右に進み、
緩い坂を上った奥にある。合掌。


◆石垣の上に墓碑があり、案内板に次のように記されている。
【松平家乗墓 大給松平本家初代岩村城主 慶長十九年(一六一四)岩村城にて没。
当初は大きい御霊屋を建て、位牌等を安置していたが●●朽ちたので、石柱を建て墓●刻●】一部判読不可



もうひとつの案内板「岩村城主松平家乗公廟所」には、次のように記してある。
【松平家乗公略歴 
天正三年  三河国大給(現豊田市大内町)に生まれる。父真乗。幼名源次郎。
天正十年  八歳にして父の遺領を継ぎ、大給を領す。
天正十五年 徳川家康の御前にて元服、家康の家の字を賜り家乗と名乗る。
天正十八年 小田原の陣に従軍。家康公関東入国のとき、上野国那波(現群馬県伊勢崎市)一万石を拝領。

慶長五年  関ケ原の戦には、三河国の吉田城を守る。
慶長六年  美濃国岩村二万石を拝領。
慶長十九年 二月九日 岩村城にて卒、四十歳。 法名「大聖院殿乗誉道見大居士」 
嫡男乗寿が後を継ぎ、寛永十五年岩村から遠江国浜松に移され三万六千石余を領す。

後、上野国舘林に移され六万石余を領す。慶安四年老中となる。その子孫は、奏者番・寺社奉行・大坂城代・
京都所司代など幕府の重職を勤め、特に乗邑・乗完・乗寛・乗全は老中として幕政に活躍した。
所領は美濃国岩村ー遠江国浜松ー上野国舘林ー下総国佐倉ー肥前国唐津ー志摩国鳥羽ー伊勢国亀山ー
山城国淀ー下総国佐倉ー出羽国山形と替り、三河国西尾で明治維新を迎えた。】

◆松平家乗公廟所の上方左に松平家供養塔がある。(写真の中央の坂を上り、突き当りを左奥の方へ上る。)


◆大きな五輪塔が四基、お地蔵さんが一基並んでいる。合掌。


右端の五輪塔の案内板に次のように記してある。
【松平真乗供養塔 大給松平本家初代岩村城主松平家乗の父で、天正十年(一五八二)没。
三十七歳であった。家乗が岩村在城中の慶長十五年(一六一O)に父の冥福を祈って建てた。】

右から二番目の案内板には【松平乗国供養塔 乗国は大給松平分家三代岩村城主松平乘薀の長男で、
明和七年(一七七O)九歳で没した。林述斉の兄である。実母は供養塔を建て、法華経一千部を手書きして埋めた。】

三番目は「乗友公(大成院殿、四代乗保公の長男)供養塔」であるが、案内板は朽ちていた。
左端「松樹院殿供養塔」の案内板は見当たらない。

◆後日、図書館で調べたところ、「岩村町史」に次のように記載されていた。
【乗政寺経塚 
松平家供養塔が四基ある。盛塚はなく石垣で囲まれた地域内に四基が行儀よく並んでいる。
それは左の如くである。

梅香院殿清岸道翁大禅定門 (松平真乗) 慶長十五年七月
松樹院殿栄誉盛吸大信女 (松平家乗室) 寛永九年八月一日
大成院殿仁雄知道大居士 (松平乗友) 享和元年六月十八日
玄達院殿踏雲幼光大童子 (松平乗国) 明和壬辰十一月大祥日

これは塚はないが、やはり経塚であって埋経して建てた石供養塔で、決して墓ではない。
それは銘記の文章で明らかである。

先ず松平真乗は岩村初代城主松平家乗の父で、天正十年三月に没した人である。
慶長十五年家乗が岩村在城中に父の冥福を祈って建てたものである。

次の松樹院の供養塔は、寛永九年に松平乗寿が実母松樹院のために逆修として供養したものである。
松樹夫人は松平家乗の正室であり、大垣城主石川康道女である。
寛文元年十月に没したのであるが、この塔の建てられた寛永九年はまだ存生中である。
生前中に仏事供養をすることを逆修という。塔前に逆修也とある。

大成院殿は松平乗友で、松平乗保の嫡男である。享保元年六月十八日、二十歳で江戸で没した。
まだ相続していなかったので世代に入らないが、任官もし正室を迎えていた。
時期さえ来れば当然乗保の後を受けて藩主となるべき人が早世の故に部屋住の内に終わったことは、
父乗保も実母も悲歎が深く、上野春性院に墓を建てると共に岩村に供養塔を建てたのである。

玄達院は松平乗国で城主松平乘薀の嫡男である。三男は乗衡で後の林述斎である。
乗国は長男として生まれ、幼名永之助といった。成長すれば当然城主となるべき人であったが、
僅か九歳で明和七年十一月九日没したのである。
嫡男であったから上野春性院の墓地に歴代当主と列べて葬られたが、実母はその悲しみに耐えず、
国元岩村に供養塔を建てたのであるが、自ら法華経一千部を手書きして埋めた。
五輪塔の礎石に長文の銘文を刻した。】

以上  


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2018年05月13日

岐阜県八百津町<大仙寺>和知城主「稲葉氏」墓所、豊後高田藩主「松平重直公」墓所 (武将のお墓参り36)

2018.5.1参拝
<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

★★『大仙寺』 岐阜県八百津町八百津4345-1
大仙寺は和知城(稲葉城)主稲葉氏菩提寺で、城主四名の墓碑がある。
また、豊後高田藩主「松平重直公夫妻」の墓所でもある。


★稲葉氏について「八百津町史」には、
【稲葉一鉄の末子右近大夫方通(初代)は、安八郡西保城(神戸町)より、
天正十八年(1590)和知に移封され、和知城を築き城主となった。

関ケ原の役に東軍に属して功をたて、四千四百三0石を賜う。
元和三年(1618)徳川家康の命により、尾張藩義直卿に附属せしめられた。
寛永十七年十月1日卒。大仙寺に葬る。
墓碑・鐡巌道堅居士右近大夫方通(城主としては質素な駒形石碑)

(二代) その子主計知通、家督を継ぎ、後隠居し、特に隠居料千石を賜った。
明暦三年(1658)8月卒。大仙寺に葬る。墓碑・鐡心道要居士主計智通

(三代) その子右近正通、家督を継ぐ。明暦三年八月卒し、大仙寺に葬る。
墓碑・鐡曳隆元居士右近正通

(四代) その子右近良通、父の遺領を継ぎ、延宝二年二月卒し、大仙寺に葬る。
墓碑・鐡龍春輪居士右近良通

(五代) 良通子無き為、幕府は命じて外孫、右平次屋通を嗣とし、旧邑を賜った。
延宝四年三月卒し、名古屋禅流寺に葬った。
子がなかったので家は断絶し、領邑は尾州藩に帰属した。】と記載されている。

◆大仙寺は山麓に建ち、入口に建つ江戸時代建立の惣門は、どっしりしている。


◆惣門の先は、緩い石段の参道になっている。参道の左側には、石仏が並んでいる。


◆石段の参道は突き当たると、右に進む。石垣と白壁が美しい。


◆次は、やや小さい山門を潜る。


◆山門を潜り左に進むと、立派な庫裏があり、その先が本堂前である。合掌。


◆本堂の左奥に墓地への入口がある。


◆本堂の後方の斜面が墓地になっており、階段を上る。


◆階段の突き当りを右に進む。


◆T字路を左に上がると、稲葉家の墓碑が並ぶ。稲葉家下段の墓所である。合掌。


◆一番手前(右端)が、初代稲葉方通公(鐡巌道堅居士)の墓碑である。


◆3代正通公(鐡叟隆元居士)の墓碑は、左から2番目である。


◆稲葉家下段墓所の右端を右に進む。


◆そして、階段を上った所が、稲葉家上段の墓所である。合掌。
右端が、2代知通公(鐡心道要居士)の墓碑である。


◆右から3基目(写真の右側)が、4代良通公(鐡龍春輪居士)の墓碑である。


★豊後高田初代藩主「松平重直夫妻」の墓所については「八百津町史」によると、
【墓碑(五輪塔):※東照院前丹州太守大心道鉄大居士(寛永十九年十一月)

墓地の丹後堂と称する所に大きな五輪塔が二基祀ってあるが、
この墓は九州臼杵の城主松平丹後守と申す領主が、非常に国師に帰依し遂に大仙寺で亡くなり、
後日城主の妻も遺骨が此処に葬られたと伝えられている。

国師に帰依した動機は,或年丹後守が参勤交代で江戸に登られ太田の渡しを越そうとした時、
国師も通り合わせ、その船に飛び乗られた所、家来共は無礼者として国師を船より下ろしてしまった。
国師はこの船は川の真中より進まないと仰せられたが、その通り船は動かなかった。

城主を始め家来の者共は、非常に驚き不思議に思ったが、どうすることもできない。
そこで国師の法力の偉大さに恐れ、国師を再び乗せたら船は楽々超すことが出来た。

城主は国師の偉大なる僧侶であることを知り深く帰依し、
遂に国師の手厚い看護を受けて死去されたとのことである。

※松平重直(寛永十九年十一月28日没、恵照院大心道徹)
(杵築藩能見松平家の松平重忠の娘婿)出羽上山藩主、摂津三田藩主、豊前龍王藩主、豊後高田藩主】
と記載されている。

◆「松平重直公夫妻」の墓所の参道は、本堂下の右方にある第二駐車場前にある。


◆斜面にある墓地の間の長い階段を上る。



◆上り切ると、左奥に立派な五輪塔が二基見えてくる。




◆左側が松平重直公、右側が夫人の墓碑である。
3m以上あろうかという巨大な五輪塔で、近くで見ると圧倒される。合掌。


★稲葉家墓所も松平夫妻墓所も、案内板は一切なく残念だった。手探りで墓碑を探した。
しかし、墓所も含め境内全体がきれいに清掃されており、良いお寺だった。

◆「稲葉家墓所」配置図を作成したので、参考になれば幸いである。


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:07Comments(1)武将のお墓参り

2018年05月10日

山梨県山中湖村<食彩ペンションくりの木の下> (美味しかった21)

★食彩ペンションくりの木の下★
山梨県山中湖村山中1385☎0555-62-1026
「料理良し、富士山の眺め良し、お風呂良し」なのに、お値打ちな宿である。

2018.4.26宿泊
◆この宿に昨年初めて泊って大変良かったので、今年も訪れた。

◆宿は富士山の東北、山中湖の北方に位置し、高台に建っている。
到着時は、雲のすき間から富士山を見ることが出来た。


◆お風呂は、伊豆石という緑色っぽい石が湯船と床に貼ってある。
肌触りが良くて、いいお風呂だ。


◆夕食は、ダイニングでいただく。
料理はどれも、目で味わい、舌で味わえた。盛り付けも味も素晴らしい。(写真は料理の一部)





食後のハーブ入りフルーツティも美味しかった。


料理に大満足、「食彩」と謳っているだけあると思った。

◆料理担当はご夫婦二人。食べ歩きをしていると伺った、研究熱心なのだ。

◆夜は敷地内にキツネが来るそうで、部屋の灯りを消すと、子狐の姿を見ることができた。

◆翌朝は、宿から美しい富士山を裾野まで見ることが出来てラッキー。


◆朝食前に散歩にでかけた。宿は森の中にあり、ウグイスなどの小鳥のさえずりが聞こえる。
宿には、野鳥好きの方も泊まりにくるそうで、バードコールが置いてあった。


◆「花の都公園」まで徒歩5分程で到着。
早朝で公園には入れないが、公園前のチューリップ畑越に富士山を眺められた。美しい眺めだ。



◆朝食は、窓越しに富士山を眺めながらいただいた。贅沢だ。


おいしい朝食は、野菜がたっぷりなのもうれしい。(写真は料理の一部)



◆宿のご夫婦の笑顔も素敵だった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:48Comments(0)美味しかった

2018年04月11日

★イタリア旅行記★その13 「ナポリ車窓見学」「カンツォーネディナーショー」「帰国」

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着

イタリア旅行記も今回で最終回です。6日目~8日目帰国までの内容です。

<6日目 2月25日の2> 「ナポリ車窓見学」「カンツォーネディナーショー」「ローマ宿泊」
★★★ナポリ
★バス(車窓)
◆ポンペイからバスでナポリへ向かう。
途中で右手にヴェスヴィオ火山が見える。進むにつれて、山の形が変わっていく。


★ナポリ(車窓見学)
◆ナポリは、南イタリア最大の都市である。
「人情味溢れる下町気質の陽気な人々、自然の恵みがたっぷりの美食、歴史を感じる史跡など、
魅力がつまった都市」とガイドブックに書いてある。

◆ナポリの新市街のビル群が見えた。


◆旧市街には、レトロな建物が立ち並ぶ。脇道は、歩道は広いが車道は狭い。



◆海沿いのお城を見ることが出来た。


◆ナポリは、車窓から見ただけでは物足りなかった。
次にイタリアを訪れることができたら、下車観光をしたい。

★バス(車窓)
◆ナポりからローマに戻る。ナポリの北から見たヴェスヴィオ火山。街まで近い。


◆傘松が並んでいるのが見えた。途中で、トイレ休憩あり。


◆美しい風景もあった。


★★★ローマ
★(ホテル}「シェラトン パルコ デ メディチ」(休憩)
◆ローマは雨だった。ナポリからホテルに戻り、部屋で1時間ほど休憩。

★カンツォーネディナーショー
◆オプショナルツアーの「カンツォーネディナーショー」行のバスが来た。
ローマ旧市街へ向かう。ドライバーはアントニアさん、現地ガイドは日本人の出口さん。

◆ガイド出口さんの案内とレクチャー
・今日はサッカー観戦の車で道が混んでいる。

・ディナーショーのメニューは、リボン形のパスタ、ローマ名物「サルティン・ボッカ(ポーク)
生野菜の付け合わせ」。デザートはベリーたっぷりのケーキ。

テーブルに最初からパンが置いてある。
一人に2グラス、テーブルに置いてあるワインと水は、セット料金に含まれている。

・レストランは薄暗い。オペラ歌手が、イタリア民謡やオペラを歌ってくれる。
舞台はなく、各テーブルにも来てくれる。フラッシュ撮影もOK、記念撮影OK。

・歌のリクエストOK。よくリクエストされるのは、サンタルチア、オーソレミオ、
フニクリフニクラ、オペラのトゥーラントッドなど。

・歌い終わったら、自分のCDを売り込みに来る。気にいったら買ってね。
チップは、紙幣を折り畳み、握手した際に渡すと良い。

・歌手は気分がのってくるとサービスしてくれる。歌手が男性1人なら「ブラボー!」、
女性1人なら「ブラバー!」、男女ペアなら「ブラビー!」と声をかけてみましょう。

◆レストラン「カサノバ」に到着。
「カンツォーネディナーショー」の参加者10人は、1テーブルに通された。
先客がいて、男性歌手が歌っている最中だった。

◆テーブルの上には、赤と白のワインが各1本置いてあった。10人でシェアする。


◆歌手は男性1人、ピアノの男性1人だった。
とても良い声で歌い、聞きほれた。「ブラボー!」と声を掛けた。
聴いたのは、サンタルチア、オーソレミオ、フニクリフニクラ、タイムトゥーセイグッバイなど。



◆手招きすると、我々のテーブルに来てくれた。記念撮影にも快く応じていただいた。
CDを買うツアー客もいた。


◆料理は、歌っている最中に出てきた。ガイドさんの案内通りの内容だった。
リボン形のパスタ、ローマ名物「サルティン・ボッカ(ポーク)、ケーキ




◆デザートを食べ終えると、我々のショータイムは終わり。
帰る前にもテーブルに来てくれたので、握手をしてチップを渡した。
良い時間を過ごさせていただいた。参加して良かった。

★(ホテル}「シェラトン パルコ デ メディチ」(宿泊)
◆バスでホテルに戻り、気分良く寝ることが出来た。

<7日目 2月26日> 「帰国 ローマ~ヘルシンキ」
★★ローマ
★(ホテル}「シェラトン パルコ デ メディチ」
◆ローマの朝は雪だった。少し積もっている。波乱の幕開けだった。

添乗員さんによると、ローマでは2012年以来6年ぶりの雪だそうだ。
「めったに見られません。ぜひ写真に撮ってください。」と言われた。


◆朝食はホテルのレストラン。まだ準備中だったが、中に入れた。
ベーコン、サラダなどは、まだ用意されていなかった。でも他の料理で十分だった。


◆今朝の出発は7:45。バスで空港に向かう。

★ローマ フィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ビンチ空港)
◆ホテルからバスで約15分。
道路の端に雪が残るが、無事に空港に到着。空港に近いホテルで良かった。

◆添乗員さん情報・・・フランクフルト空港やパリ空港は、雪に弱く、閉鎖になることもある。
ヘルシンキ空港は雪に強いので大丈夫だ。

◆空港到着時には、フィンランド航空(フィンエアー)のチェックインカウンターに誰もいなかった。
並んで待っていると、あっという間に後ろに列ができた。


しばらくすると、やっとで係員1人が来て受付開始。

◆順番が来ると、スーツケースを預けた。
スーツケースや手荷物に付けるタグは、自分たちで付けた。

係員は、列が長くてもゆっくりと手続きをする。決して急がないのがイタリア流だそうだ。
搭乗券を受け取り、他のツアー客のチェックインを待つ。

◆もう一人係員が遅れてやってきた。ほかの係員は、雪でいつ到着するかわからないそうだ。

◆添乗員さんによると、「他の空港から飛行機が到着しないため、遅れている便がたくさんある。
だが、我々が搭乗する飛行機は昨夜ローマ空港に到着しているから、少し遅れる程度だと思う。」

でも、搭乗ゲート係員はチェックインカウンター係員が兼ねており、
搭乗客全員のチェックインが終わらないと搭乗できないそうだ。心配だ。

◆手荷物検査をスムーズに終え、搭乗ゲートに向かう。
この時点では、出発便ボードに我々の乗る便の遅れは表示されていなかった。


◆搭乗ゲートへの通路脇に土産屋や飲食店などが並んでおり、買い物を楽しんだ。
そして、添乗員さんお勧めの店でジェラートを食べた。美味しかった。


◆搭乗ゲートには出発予定時間より早めに向かった。
着いた時には、周りの搭乗ゲートも含め、長い長い列ができていた。
とりあえず、搭乗ゲート近くで待った。

周りの搭乗ゲートも含め、列が動かないので心配になったが、待った。
左側の搭乗ゲートの列が動いた。こちらもと期待して待った。

右側の搭乗ゲートの列も動いた。こちらもと期待して待った。
添乗員さんが確認したところ「飛行機まで行くバスの運転手が少ししか出社しておらず、
このようなことになっている。」とのこと。信じられない、アンビリーバボー!!

添乗員さんから「ヘルシンキ空港で乗り替えだが、中部国際空港行は17:15なので、
待っててくれると思うがはっきりとはわからない。待ってなければ、ヘルシンキ泊まりとなる。」
どうなるやら。待つ間、土産店で菓子などを買って食べた。

◆両端の搭乗ゲートの列がなくなった。しばらくして我々の便の搭乗案内があった。
やれやれ、最後かよ。

★フィンランド航空(フィンエアー)ヘルシンキ行
◆空港ビルから連結バスで飛行機まで行った。
空は晴れ、滑走路には雪もない。出社が遅れたバス運転手をうらんだ。

◆バスを降り、前後にあるタラップで飛行機に搭乗。


搭乗してからも40分ほど待った。結局、10:55発が14:55に変更となった。4時間遅れの出発だ。
ローマ空港に7時間ほどもいたことになる。こんなことになるなんて。

◆機内サービスは、最初にチョコヌガーの小さいのを1個、腹が減っていたので美味しかった。
ドリンクは、コーヒー、紅茶、ブルーベリージュース、水のうち1つを選ぶ。

◆離陸してしばらくしてから、機内アナウンスがあった。何を話しているかわからない。
添乗員さんから「乗り継ぎ便がヘルシンキで待っている、とアナウンスがあった。」と知らせてくれた。
ホッとした。

◆ヘルシンキ上空で、美しい夜景が見れた。
街灯をはじめ、街の灯りはオレンジ色が多く、暖かい感じがする。

★★ヘルシンキ
★ヘルシンキ空港
◆ヘルシンキ空港に18:53(ヘルシンキ時間)着陸、約3時間のフライトだった。

◆出発便ボードの我々の便には「最終案内」と表示されていた。


EUの出国審査では、出発時間を大幅に過ぎているが大丈夫か尋ねられた。
添乗員さんが「OK」と言ってくれて無事通過。
ツアー客全員の出国審査が済むと、大急ぎで搭乗ゲートへ向かった。

★フィンランド航空(フィンエアー)中部国際空港行
◆中部国際空港行の便は、待っていてくれた。3時間以上も待っていてくれた。「ありがとう!」
17:15発の予定だったのに、20:30頃の離陸となった。

◆座席は、2・4・2列。席に枕・毛布・ペットボトル(小)の水がある。前にTV画面もある。
フライト予定時間は、9時間15分とアナウンスがあった。

◆機内食の夕食は、「照り焼きチキンとライス」か、「ミートボールとポテト」かを選べる。
残念ながら、どちらも味付けは甘ったるくて、我々の好みではなかった。



◆ドリンクは無料。コーヒー、ビール、ワインなど。いろいろあって良かった。

◆帰りは、行きと飛ぶコースが異なる。行きよりも南を飛ぶ。


それでも、暫くは雪景色の中を飛んだ。



<8日目 2月27日> 「帰国 ヘルシンキ~中部国際空港」
★フィンランド航空(フィンエアー)中部国際空港行
◆朝鮮半島に近づいた10時(日本時間)頃に朝食が出た。
玉子焼き、ウインナー、ポテト、温野菜、ヨーグルト、胡麻パン、マフィンだった。


★★帰国
★中部国際空港
◆日本時間12:03着陸。予定より2時間20分遅れだが、無事に帰国できてよかった。

◆スーツケースを受け取り、添乗員さんに御礼を言って出口へ。頼りになる添乗員さんで良かった。
◆空港内の「風の湯」にゆったりと浸かってから帰宅した。広い湯船はいいね。

★★最後に
◆今回の旅は、観光中の悪天候有り、帰国便の遅れ有りで、大変な旅になった。
こんな大変な旅は、初めてだった。

しかし、素晴らしい観光地を巡り、ツアー客の方たちとのおしゃべりができて、
全体では大変楽しいイタリア旅行だった。思い切って行って良かった。
「添乗員さん、ツアー客の皆さん、現地ガイドさん、ドライバーさん、ありがとうございました。」

おしまい

PS カメラの日付は、日本時間のままなので、実際の日付と合わない写真もあります。あしからず。

  


Posted by ふなチャン(Y)  at 13:44Comments(0)イタリア旅行記

2018年04月08日

★イタリア旅行記★その12 「世界遺産ポンペイ遺跡」

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス★イタリア決定版8日間★ 中部国際空港発着
<6日目 2月25日の1> 「ローマのホテル」「世界遺産ポンペイ観光」 

★★ローマ
★「「シェラトン パルコ デ メディチ ローマ ホテル(3号棟)」
◆ローマの朝は晴れていた。


◆朝食は、ホテルのレストラン。今回の旅では一番良かった。
メニューは、クロワッサン、ケーキ、ハム、チーズ、マフィン、ラスク、ジャム(瓶入り)など。
サラダもあって良かった。



◆フルーツは、生のパイナップル、メロン、ドライのクルミ、プルーン、アンズ、バナナなどもある。


◆本日は終日、自由行動である。
しかし、我々はオプショナルツアーで、「ポンペイ・ナポリ観光」と「カンツォーネディナーショー」の予定だ。

8:00出発、バスに乗車し、ポンペイに向かう。
ドライバーはロレンスさん、現地ガイドはシモーネさん。
シモーネさんは、日本留学の経験があり、日本語が上手な男性だ。

◆ポンペイまで約3時間。途中の休憩場所から見える山の姿がきれいだった。


★★★世界遺産ポンペイ
★ポンペイ遺跡
◆ポンペイは、79年に起きたヴェスヴィオ火山の大噴火により、約8mの火山灰に埋もれてしまった町。
発掘されたのは一部で、現在も発掘が続けられている。
広大な遺跡群で、神殿、共同浴場、居酒屋、人々に至るまで、当時の文化や生活が残されている。  

◆ポンペイに到着し、バスを降りて少し歩く。
遺跡への途中にレストラン・バーがある。店先にレモンやオレンジを吊り下げてあった。


◆ポンペイ遺跡に入場ゲートから入る。現地ガイド・フランコさんが加わった。
フランコさんは日本語が話せないので、付き添いするだけだ。説明はシモーネさんが行う。

◆入場ゲートの先に遺跡が広がっている。
遺跡の端は、元は海に面していたと説明があった。堀のようになっている。


◆海沿いの遺跡は、港だったところだそうだ。


◆ポンペイは城壁で囲まれ、坂道の途中にマリーナ門がある。道は、石畳になっている。



◆道は真中が馬車道で、両脇が歩道だ。馬車道が雨に浸かった時に渡れるように、飛び石がある。



◆遺跡内には、所々に大理石の円柱が立っている。神殿らしい。






◆モニュメントもある。



◆後方の山はヴェスヴィオ火山だ。


◆遺跡の建物は、レンガを積んで造ってある。積み方はいろいろあって、美しい模様となっている。



◆脇道は狭い。



◆大きな道には、水槽も置いてある。大理石でできている。



◆路上の石に「男性のシンボル」。男性の遊ぶところへの矢印だそうだ。


◆入口の石を見ると、扉があったことがわかる。


◆狭い家が連なっている区域もある。


◆道路沿いの壁にある蛇のフレスコ画。ポンペイの赤と言われる塗料で描かれている。


◆売春宿のフレスコ画。怪しい絵だ。


◆美しいレンガ積み。


◆水道管は鉛でできていた。この水を飲んだ人々は健康を害したそうだ。


◆フレスコ画が、所々に残る。


◆床のタイル画も一部に残る。イノシシや番犬などのタイル画があった。



◆レンガの色や模様がいいね。







◆商売屋の看板。



◆訪れた時は、観光客はさほど多くなかった。たまに団体客に出会った。



◆フォロの浴場(共同浴場跡)の入口付近。


入口上のレンガが美しい。


浴場内部。浴場への通路。


内部にフレスコ画もある。


浴室。天井や壁は、彫像で飾られている。





大理石の湯船もある。


天井に、明り取りの穴が開いている。


◆遺跡全体は、赤いレンガが印象的だ。



◆居酒屋だったところ。大理石の台がカウンターとか調理台だったとか。



これは「かまど」らしい。


◆壁のレンガ。色の濃いのから薄いのまで使ってあり美しい。


◆パン屋のパン焼き用のかまどが残る。
手前の石臼は小麦粉を挽くためのもので、二千年程前の本物だそうだ。
石臼に触れることができる。日本ではありえない。



◆壁や門は、レンガで様々な模様が作られている。




◆発掘された遺跡の部材は、復元を待っているものもある。


◆この場所は、レンガの上には漆喰が塗られていたとわかる。



◆高い壁が残る場所もある。


◆ここは立派な家で、レンガの柱や壁のフレスコ画も残っていた。床のタイルも美しい。






◆見学に十分に時間をとっていただき、大変良かった。見応え十分の遺跡だった。
シモーネさんの案内も主な見所をスムーズにまわり、説明もわかりやすく、大変良かった。感謝。

★ポンペイ(昼食)
◆遺跡近くのバスを停めたレストランで、少し遅めの昼食をいただいた。
飲み物は、ワインを注文。飲みやすくて美味しかった。


◆料理は、シーフードサラダ。


◆定番のパン。


◆ボンゴレ(パスタ)、美味しかった。


◆エビとイカのグリル、サラダ添え。これも美味しい。


◆デザートは、ジェラート。カップ入りなのが残念。


◆後で、ローマ自由行動の人に「ローマは雨だった」と聞き、ポンペイは降られなくてラッキーだった。
大満足のポンペイ観光だった。

つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:45Comments(0)イタリア旅行記

2018年04月06日

★イタリア旅行記★その11  「世界遺産バチカン市国」「世界遺産ローマ歴史地区」「ローマ宿泊」

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<5日目 2月24日の2> 「世界遺産バチカン市国」「世界遺産ローマ歴史地区」「ローマ宿泊」

★★★ローマ
★レストラン(昼食)
◆「チビィタ・ディ・パニョレージョ」の絶景を楽しんだ後は、バスでローマへ向かった。
ローマは、雨だった。きょうも雨降りだ、トホホ。

◆昼食は、ローマ市内のレストラン「アルジャジーノ」。
店内の入口付近に、店の名刺などが置いてあった。いい感じだ。


◆天井から吊り下げられた電球が印象的だ。店内はお客で賑わっており、我々は奥の部屋に通された。


◆ドリンクメニューは日本語版があり、生ビールを注文した。



◆料理は、最初にサラダ。


◆次に「マルゲリータ(ピザ)」。ローマ風で生地は薄い。皿から、はみ出るくらいの大きさだ。
釜で焼いた熱々が食べられ、美味しかった。


★★★世界遺産ヴァチカン市国
◆レストランから歩いてヴァチカン市国へ向かった。ローマ市内の現地ガイドは、日本人の種さんだ。
種さんから「本日は反政府デモが市内であり、全国から大勢の参加者が集まってくる。
スムーズに観光できるかわからない。」と言われた。どうなるやら。

◆ヴァチカン市国は、高い城壁に囲まれていた。城壁に沿って進む。


◆ヴァチカン市国は独立した国であるが、イタリアとの国境は大理石の円柱だった。
入国審査はない。太い円柱の間を抜けると、サン・ピエトロ広場に出る。

円柱群に沿って大行列があった。サン・ピエトロ大聖堂に入るための手荷物検査の行列だそうだ。
行列の動きは鈍く、いつ入れるかわからない。


◆円柱の上には、聖人たちの彫像が並んでいる。


◆サン・ピエトロ大聖堂は、堂々とした美しい建物だった。
現在の建物は、16~17世紀に約100年かけて再建され、ミケランジェロ、ブラマンテ、
ベルニーニなどルネッサンス期とバロック期を代表する芸術家たちが、建物と装飾に携わったそうだ。



手前には高いオベリスクが立つ。15分のフリータイムあり。

◆大聖堂の中央2階バルコニーがローマ法王がお目見えする場所だそうだ。


◆太い円柱の間を抜けてヴァチカン市国を出国し、バスの乗車場所に向かった。


★★★「世界遺産ローマ歴史地区」
★「凱旋門」と「コロッセオ」
◆バスを降りて、少し歩くと凱旋門に着く。凱旋門の手前には、小銃を抱えた兵士が警備していた。


◆凱旋門・コロッセオの周辺は、多くの観光客で賑わっていた。20分のフリータイムあり。

◆凱旋門は中央に大きなアーチ、両脇に小さいアーチがある。門全体に彫刻が施されていた。




◆凱旋門の右奥にあるコロッセオは、紀元80年完成の広大な闘技場で、長径188m、
5万人を収容できたという。人と猛獣の闘技は404年にホノリウス帝により中止されたそうだ。


◆外壁のアーチの装飾は、各階それぞれ異なる様式で見所だ。


★トレビの泉
◆バスで移動し、次はトレビの泉へ向かう。バスを降りてから、しばらく歩く。
石畳の道を進むと、傘をさす人だかりがあった。トレビの泉だ。傘の波で泉を観ることができない。


◆トレビの泉は1762年に完成。古代の水道口があった場所に造られ、背後にポーリ宮殿がある。
噴水に背を向けて肩越しにコインを投げると、再びローマを訪れることができるといわれている。


◆泉付近で20分ほどのフリータイム。
傘をかき分けかき分け、泉の前に行き、コインを投げ入れることができた。

◆泉の奥には躍動感のある大理石の彫像がある。
中央は海神ネプチューン、右は健康の神サルース、左は豊穣の神ケレスだ。


★スペイン広場
◆トレビの泉から徒歩でスペイン広場に向かう。広場までは、さほど遠くなかった。
広場で15分のフリータイム。

◆映画「ローマの休日」で有名になった広場である。
名前は17世紀にスペイン大使館が近くにあったことに因むそうだ。

◆広場前は、大混雑だった。


◆北東側に末広がりの大階段「通称スペイン階段」があり、トリニタ・ディ・モンティ教会へ続く。
階段では、あちらこちらで記念撮影をしていた。




★三越(ショッピング)
◆スペイン広場まで予定よりスムーズに回れたため、ショッピングタイムを設けていただいた。
三越へ徒歩で向かう。途中の町の風景もいいものです。






◆三越で40分のフリータイム。
店内は良い品が揃っており、賑わっていた。
地下には「真実の口」のレプリカがあり、手を入れて楽しめた。


★レストラン(夕食)
◆夕食は、ローマ市内のレストラン「マングロビア」でいただいた。
飲み物はワインを注文した。飲みやすかった。


◆料理は、ローマの郷土料理である「カルボナーラ(パスタ)」。


◆ポーク料理。料理名は忘れた。


◆デザートは、チョコムースだった。


★★★ローマ郊外(宿泊)
★(ホテル)「シェラトン パルコ デ メディチ ローマ ホテル(3号棟)」
◆バスでホテルに向かう。
ローマ旧市街から約12km離れており、市内と空港の中間あたりに位置する。

◆ホテルの入口は、自動回転扉だ。


◆添乗員さんがまとめてチェックイン。2連泊する。


◆カードキーを受け取るが、キーに部屋番号の記載がなかった。
部屋番号は1814だが、部屋は1階だ。
キーを差し込む方向が異なるとドアが開かず、いろいろやって、やっとで開いた。

◆部屋は清潔で問題なし。ツインベッドはくっつけてあった。


◆今日もたくさん歩いて疲れた。でも充実した1日だった。

つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:11Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月31日

★イタリア旅行記★その10 「絶景チビィタ・ディ・パニョレージョ」

旅行日2018.2.20-27
 阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<5日目 2月24日の1> 絶景チビィタ・ディ・パニョレージョ

★★フィレンツェ
★(ホテル)「カンファレンス フロレンティア」
◆朝は晴れ。
朝食はホテルで昨日と同じレストラン。同じメニューだった。


★バス
◆出発は7:30。昨日と同じバスで、同じ運転手さんだ。
約190km先の「チビィタ・ディ・パニョレージョ」へ高速道路を走って向かう。
今回のツアーで楽しみにしていたところの一つである。

◆車窓には、田園地帯、丘の上の小さな町など、日本とは異なる風景が広がる。





◆添乗員さんのイタリア情報
・イタリアは糸杉と傘松が多く植えられている。糸杉は、「魂の木」として人気。
(傘松は、傘のような形に剪定してあり、車窓からよく見られた。細く伸びた背の高い糸杉も見られた。)

・イタリア人は、自転車が大好き。アルプスで自転車レースがある。

・「チビィタ・ディ・パニョレージョ」の「チヴィタ」とは、「小さい」という意味。
(「おそ松くん」に出てくる「ちび太」を思い出す。)

◆途中、土産物店エトルリアでトイレ休憩。
チョコレート、チーズなどの試食、ワインの試飲があり、うれしい。
パスタもいろいろあり、リボン形を買った。


★★★チビィタ・ディ・パニョレージョ
◆バスは、チビィタ・ディ・パニョレージョの手前の小さな町で降りる。
そこで、小型のシャトルバスに乗り替える。その先は、道が狭いためだ。


◆シャトルバスで約5分、坂道を登って行くと20台くらいしか停められない駐車場に着く。
晴れていた。駐車場の隅に門があり、「チビィタ・ディ・パニョレージョ」への矢印看板がある。


◆門の先から、左方遠くに「チビィタ・ディ・パニョレージョ」の絶景が見えた。
素晴らしい眺めだ。お天気が良くてラッキー。


◆岩山に向かう長い橋と高い塔が見える。


◆風雨の浸食により陸の孤島になった岩山の頂上にある。中世の家並みが残る小さな町だ。
古代エトルリア人により築かれた天然の城塞都市であったが、近年は不便さから人口が減り、
「死にゆく町」と呼ばれる。現在の住民は10人ほどだそうだ。

◆周りは、崖になっていて、上に町がある。


◆門の先に展望台があり、そこからの眺めもいい。
そこに修道院の女性がいたので、記念撮影をお願いした。
アルゼンチン出身だそうだ。

◆展望台の先は、長い下り坂になっている。


◆坂を下っていくと、チビィタ・ディ・パニョレージョへ渡る橋がある。
橋の手前からフリータイム。各自で「チビィタ・ディ・パニョレージョ」を観光する。
橋は随分高い所に架かっているが、胸の高さまでフェンスがあるので安心だ。


◆橋は、初めは水平だが、段々勾配がきつくなっていく。


◆チビィタ・ディ・パニョレージョの手前は、急坂だ。



◆橋を渡りきると、石畳の坂道になっている。


◆城門を潜る。


◆その先は、レンガでできた家が立ち並ぶ。



◆教会もある。遠くから見えた塔は、教会のものだった。


◆古い家を利用した土産物店や飲食店もある。



◆絵になる町の風景が、あちらこちらにあってうれしい。




◆町の中央の道を進むと、下り坂になる。
切通しの先も絶景だ。山々と崖の創り出す景色が素晴らしい。



◆橋を渡って戻るころには、曇っていた。

つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:09Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月30日

<岐阜市の桜 その12> 「四ツ谷公園」「美江寺公園」ほか

<岐阜市の桜 その12>
2018.3.29岐阜市の中心部などの桜を観に行ってきました。
なかには、小さな公園で、桜の樹が数本のところもありますが、
枝ぶりが良いところ、見栄えが良いところをご紹介します。

★★四ツ谷公園
長良川堤防沿い、金華橋の南西にある公園です。
南側の桜は、風が吹くと花吹雪が舞いました。


桜が密集しており、見応えがあります。



★★美江寺公園
メディアコスモスの東南にある公園です。
桜越しの岐阜城もいいものです。


桜の老木と若木の両方あり、今後も楽しみなところです。




★桜ケ丘公園
都通りから東に1本入ったところにある公園です。
桜の樹は数本ですが、1本立姿が良い桜があります。



★法華寺
矢島町にあるお寺です。長良橋通り沿いにありますが、山門が少し奥にあります。
境内は、桜がたくさん植えてあり、桜の園って感じ。
風が吹くと、花吹雪がきれいでした。



★本荘公園
公園の周りに桜が植えてあります。南の道路沿いの桜です。


枝ぶりの良い桜もあります。


池に映る桜もいいものです。


★立政寺
岐阜市西荘にある、織田信長公が足利義昭公を迎えた寺です。
桜は大きくはありませんが、見る方向によっては素晴らしい枝ぶりです。


★木造町通り
通りの東は伊奈波神社参道です。木造町通りは桜並木です。


★★伊奈波神社参道
紅枝垂桜の並木です。良い色です。


★★八ツ梅公園
公園の周りに桜が植えてあります。東側と南側の桜がいい。




★西別院
本堂前にあります。若い紅枝垂桜ですが、いい感じです。


桜はもう満開です。落花盛んのところもあります。
花見はお急ぎ下さい。

以上

  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:49Comments(0)岐阜市の桜

2018年03月28日

<岐阜市の桜 その11>「加納清水川」「菊地神社」「石切神社」

<岐阜市の桜 その11>
2018.3.27花見に訪れたのは、岐阜市の南部。
「加納清水川」「菊地神社」「石切神社」をご紹介します。

★★★「加納清水川」
岐阜市内でも有数の桜の名所である。岐阜市の開花標本木があるところでもある。
JR岐阜駅の南東に流れる清水川沿いに桜が植えられており、遊歩道を歩きながら鑑賞できる。

また、いろんな種類の桜を観ることが出来るのもうれしい。
背景になる駅前のビル群も、川に桜が映るのもいいな。
一部は、桜のトンネルになっている。








★★「菊地神社」
中山道加納宿の西に位置する菊地町にある。
昔は「往来の松」があり、街道名所になっていたところでもある。

境内はさほど広くなく、桜の本数もたいしたことはないが、全体の咲き具合が美しい。
なぜか好きな場所である。





★「石切神社」
厚見小学校の南方の川沿いにひっそりと佇む神社である。
神社参道に桜が植えられており、本数は多くないが美しい。




また、神社の東の堤防に植えられている桜も美しい。
本数は多くないが、堤防の緑色と相まっていいね。




以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:56Comments(0)岐阜市の桜

2018年03月21日

★イタリア旅行記★その9  「世界遺産ピサのドゥオモ広場観光」「夜のフィレンツェ」

旅行日2018.2.20-27
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<4日目 2月23日の3> 「世界遺産ピサのドゥオモ広場観光」「夜のフィレンツェ」

★★★世界遺産ピサのドゥオモ広場
★バス
◆フィレンツェの「サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」横のバス乗り場で、バスに乗車。
オプションの「ピサ観光」に向かう。
◆高速道路を走る。周りは田舎の風景で、工場も所々で見かける。黄色いミモザの花も見かける。



★シャトルバス
◆バスはピサの駐車場で降り、無料シャトルバスでドゥオモ広場近くへ向かう。
小雨がぱらついていた。
現地ガイドはジョバンニさんだ。日本語で案内していただいた。

★ピサのドゥオモ広場
◆城壁が見えるバス停でシャトルバスを降りて歩く。
城壁沿いに進むと、城門があり、門の中が「世界遺産ピサのドゥオモ広場」となっている。
門の間から洗礼堂、ドゥオモ、斜塔と美しい建物群が見える。



★洗礼堂
◆広場内の建物群の中で、手前にあるのが洗礼堂。美しい建物だ。


門の周りの彫像が素晴らしい。ツアーは外観のみの観光。


★ドゥオモ
◆ドゥオモは添乗員さんが手配してくれた時間指定の拝観券により内部拝観ができた。
壮麗な建物で、美しいファサードや正八角形の礼拝堂がある。






◆内部撮影可なのがうれしい。フラッシュは禁止だ。
荘厳な雰囲気だった。正面奥上に大きなキリストのフレスコ画がある。


天井の四角い区画の装飾が印象的だ。


連続するアーチと円柱も美しい。


美しい堂内だ。



◆壁には、絵画が飾られている。



◆ガリレオが振り子の原理を発見したと言われるランプ(写真の右上)もある。


◆床のタイル画も美しい。


◆門のレリーフも見事だ。


◆裏門の前には、かわいい子供たちがいた。


★ピサの斜塔
◆ドゥオモを出たところで、約30分のフリータイム。斜塔と土産店を見に行った。


◆斜塔は、ピサのシンボル。
1173年から建築が始まり、第三層ができあがった時にはすでに傾き始めた。
緩和策として、上層の中心軸をずらし、14世紀後半に完成。
現在、中心軸は最下層と最上層で約3mのずれがある。

傾き具合は、遠くからでもよくわかる。塔のすぐ前に行くと、斜めに生えているって感じがする。


◆塔の周りでは、観光客が思い思いのポーズで写真を撮っている。


◆塔に上るには18ユーロ。
予約制で15分ごとに入場できるが、1回あたりの人数は少なく入場は難しい。
300段の階段があり、カメラ以外の手荷物は持込禁止だそうだ。

ツアーでは入場しないので、もし再訪できたら上ってみたい。

★シャトルバス
◆バス停でシャトルバスを待つ間、「折畳傘売り」が来て、
イタリア名所の図柄の傘をしきりにツアー客に売り込んでいた。
ベネチアの強風で傘が壊れた人もいて、購入していた。

◆ピサ駐車場でバスに乗り替え、フィレンツェに戻る。

★★フィレンツェ
★レストラン イル・テアトロ(夕食)
◆フィレンツェに戻ると、フリータイムを楽しんだツアー客と合流。
雨の中、徒歩でレストランに向かう。

◆店は古い建物の1階にある。


◆最初は、きのこ入クリームパスタ。美味しかった。


◆次に、鶏肉のトマトソース、サラダ添。デザートは、バニラアイスだった。



★サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
◆レストランから徒歩でバスに向かう道中は、街の夜景を見ながらだった。
道が灯りに照らされ、良い雰囲気だ。

◆途中に「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」があった。


ライトアップされ、美しい姿を見ることができた。



★(ホテル)「カンファレンス フロレンティア」
◆今晩もフィレンツェに泊まる。充実した1日だった。おやすみなさい。

つづく

  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:35Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月20日

★イタリア旅行記★その8 「世界遺産フィレンツェ歴史地区観光」2

旅行日2018.2.20-27
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<4日目 2月23日の2> 「世界遺産フィレンツェ歴史地区観光」2

★★★世界遺産フィレンツェ歴史地区
★ウフィッツィ美術館
◆ここの美術館は、今回のツアーで楽しみにしていたところの一つである。
フィレンツェの現地ガイドは、日本人の関さんだが、
美術館は2組に分かれて観賞するため、日比野さんが加わった。

◆1559年ベッキオ宮殿脇に造られたU字形の官庁街が原型。
その名残で、イタリア語でオフィスを意味する「ウフィッツィ」と呼ばれている。

1581年に大公フランチェスコ1世がメディチ家の美術コレクションを集め美術館となった。
メディチ家最後の大公が亡くなった後は、コレーヌ家に譲渡され、現在に至る。
展示は、メディチ家が誇る世界有数のコレクションである。

◆美術館は予約制で、3階から見学開始。階段で上るが、エレベーターもある。
名画がある展示室を巡ることになるが、廊下の天井画も素晴らしい。
上半身は人間で下半身は動物などの不思議な絵が描かれ、大変興味深い。



◆展示は、イタリア絵画、特にルネッサンスが中心である。
傑作のボッティチェリ「春」「ヴィーナスの誕生」、



ミケランジェロ「聖家族」


ダ・ビンチ「受胎告知」


他にも貴重な名画のほとんどをガラス越しでなく観ることが出来て良かった!!








◆現地ガイドの案内で、効率よく有名絵画を観て回った。
名画はたくさんあるので、少し観たらすぐ次の展示室へ移動する。
ゆっくり観ていたら置いていかれる。

◆美術館の横にアルノ川が流れ、館内からベッキオ橋を見ることが出来た。


★幸運の「イノシシの像(ロッジア)」
フィレンツェのシンボルとも言われる「イノシシの像」は、新市場「メルカート・ヌオーヴォ」にある。
鼻をなでると幸運がもたらされるとか、再びフィレンツェを訪れることができると言われ、
周りに人だかりができていた。


◆皆が触るため、イノシシの鼻は金色に光っている。
我々も撫でてきた。「もういちどフィレンツェに来れますように」


★フィレンツェ歴史地区
◆フィレンツェ歴史地区を歩いてレストランへ向かう。
途中で、メリーゴーランドのある共和国広場や町の風景を見ることができて良かった。



古い建物の入口は、大きな扉になっている。



ゴミ回収BOXは、地上に入れる口があり、地下に溜めるそうだ。
そのような日本との違いを見るのも楽しい。


★レストラン中国城酒家
◆昼食は、ビルの1階にある中華料理店。品数が多く、野菜も豊富で良かった。
◆最初は、コーンと卵のスープ。


◆他に鳥の唐揚、チャーハン、マーボー豆腐、八宝菜、焼きそば、野菜炒めなど。







◆デザートは、鮮やかな色のオレンジ。美味しかった。


★サンタ・マリア・ノヴェッラ駅
◆昼食後は、フリータイム。
オプションの「ピサ観光」に行く我々は、添乗員さんと一緒にバス乗り場へ向かう。
街を歩いて行った先は、「サンタ・マリア・ノヴェッラ駅」。駅も兵士が警備していた。

◆添乗員さんに「駅の中を通る」と言われ、「何? どこへ行くの?」と思った。
添乗員さんがゲートで何か話すと、切符もなしに駅の中に入った。
我々も後について入って行った。


◆ホームには列車が停まっている。列車の横を通り、奥へ進む。



反対側からも人が来る。ホームの端が通路になっており、通り抜けると外に出られた。
貴重な体験だった。

◆駅を出ると、バス乗り場があった。目の前には、高い城壁が連なっている。


つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:29Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月19日

★イタリア旅行記★その7 「世界遺産フィレンツェ歴史地区観光」1

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<4日目 2月23日の1> 「世界遺産フィレンツェ歴史地区観光」1

★★フィレンツェ
★(ホテル)「カンファレンス フロレンティア」
◆朝は晴れていた。
部屋jからの眺めは、手前に道路、その向こうに丘があり家が点在していた。良い眺めだ。



◆朝食は、ここもハム、チーズ、タマゴ、パン、ウィンナー、ヨーグルト、ケーキ、シリアル、
フルーツ、ラスク、クッキーなど。


★バス
◆今朝の出発は、8:00。バスで、フィレンツェ歴史地区を見下ろすミケランジェロ広場へ向かう。
◆添乗員さんのイタリア情報 
「ドゥオモ」とは、「司教の座るイス」のこと、街に一つ。その格上が「バジリカ」(寺院)という。

★ミケランジェロ広場
◆バスを降りると、広場の中心に立つミケランジェロ作の「ダビデ像」(複製)が目に入る。
裸でフィレンツェの街を見下ろしている。風も少しあり、寒そうだ。
大きなダビデ像の足元には、4体の彫像がある。皆、緑色の身体だ。


◆広場は小高い丘にあり、素晴らしい眺めだ。
手前にアルノ川が流れ、その向こうにフィレンツェの旧市街が広がっている。
ドゥオモや教会、街の建物の茶色の屋根が印象的だ。遠くには、白い山々が見える。



◆観光名所になっているベッキオ橋も左方に見える。


★★★世界遺産フィレンツェ歴史地区
★フィレンツェ歴史地区
◆ミケランジェロ広場からバスでアルノ川を渡る。
そしてバスを降り、フィレンツェ歴史地区を歩いて目的地まで向かう。
歴史地区は世界遺産で、目的地以外も見ていて飽きない。趣ある建物があちらこちらにある。




★ドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会)
◆歴史地区の最初の目的地「ドゥオモ」に着いた。
ここは、フィレンツェ共和国が約140年かけて建造、1436年に完成。
大聖堂は正式名称を「サンタ・マリア・デル・フィオーレ教会(花の聖母教会)」という。

◆外観は、全面に装飾が施され、フレスコ画や彫像もある。
クーポラと呼ばれるドームの曲線が美しい。






高い塔が聳えているが、「ジョットの鐘楼」である。



★サン・ジョバンニ洗礼堂
◆ドゥオモの向かいにある洗礼堂は、美しい建物である。
フィレンツェ最古の建物の一つだそうだ。


東門の扉は美しいレリーフが施されており、ミケランジェロが「天国の門」と称賛した。


◆ここには、昼食後にも立ち寄った。異なる角度から眺めることが出来て良かった。


★ベッキオ宮殿とシニョーリア広場
◆ドゥオモと洗礼堂の間の道を進むと、シニョーリア広場に出る。


◆広場でまず目に入るのが、高い鐘楼がシンボルのベッキオ宮殿だ。
その右側は、大きなアーチが印象的なウフィッツィ美術館のテラスである。


◆ベッキオ宮殿は、1299~1314年のフィレンツェ共和国の執政官の館として建てられた。
16世紀にはメディチ家のコジモ1世の居館となり、その後に市庁舎となり、現在も利用されている。


◆ベッキオ宮殿前に「ダビデ像(複製)」などが立っている。こちらは白い。


◆ウフィッツィ美術館を鑑賞後に革製品店に入り、その後に宮殿の1階を通り抜けた。
内部は、曲線を多用し、ライオンの彫像もあった。


◆天井の高い回廊があり、壁にはフレスコ画、円柱には装飾が施されていて、美しい空間となっている。



◆中庭には、かわいい天使の噴水があった。


◆ウフィッツィ美術館のテラスにも多くの彫刻が飾られている。


ライオン像は、迫力があり、怖い顔をしていた。


つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:52Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月16日

★イタリア旅行記★その6 「世界遺産ベネチア観光」2&「フィレンツェ宿泊」

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<3日目 2月22日の2> 「世界遺産ベネチア観光」2&「フィレンツェ宿泊」

★★★世界遺産ベネチア

★レストラン ノエミ(NOEMI)
◆昼食は、サンマルコ広場から少し離れたレストランだった。
ドアの取っ手に「タツノオトシゴ」のレリーフがあった。落ち着いた感じの良い店だ。





◆テーブルの上に始めからパンが置いてある。
最初に出てきたのは、ベネチア名物の「イカスミパスタ」。見事に黒い。歯が黒くなった。


◆次は、ベネチア名物の「フリット・ミスト・ディ・ペッシェ」。
イカリングと小海老のフリットにサラダが付く。レモンを絞ってかけると美味しい。


◆デザートは、ティラミス。


★ゴンドラ遊覧(中止)
◆昼食後、約40分のフリータイム。
◆フリータイムに予定していたオプショナルの「ゴンドラ遊覧」は、中止になった。
ツアーが予約したゴンドラ乗場は、大運河沿いにあり、強風で危険なためだ。
正直、乗れなくて残念だったが、雨風の中で乗るのも気が進まなかった。良しとしよう。

◆小運河では、ゴンドラ遊覧が行われていた。
お客もゴンドリエーレ(漕ぎ手)もカッパを着ており、風情がなかった。


★リアルト橋
◆リアルト橋へ向かうことにした。
途中にある路地沿いにある店を覗いたり、街の風景を楽しみながら、向かった。




◆リアルト橋付近では、桟橋のゴンドラ乗場でゴンドリエが暇そうにしていた。



◆橋は、思っていたよりも立派だった。大理石でできており、レリーフもある。


◆橋の上からは、両岸のレトロな建物と運河に浮かぶ船を見下ろせた。
桟橋にはゴンドラや遊覧船が繋がれている。良い眺めだ。



◆橋は幅広く、中央に店が軒を連ねている。店が段々になっており、ユニークだ。



★船
◆ベネチア本島から船で、イタリア本島トロンケット港へ戻る。


雨と強風のベネチアだった。でも、大変良いところだった。
もし、再訪することができたら、今度こそゴンドラに乗ってみたい。街をゆっくり歩いてみたい。
大鐘楼に上って、街を見下ろしてみたい。(上ったツアー客から絶景だったと聞いた)

★バス
◆ベネチアからバスに乗って約261km行くと、フィレンツェのホテルに到着する。

◆途中でトイレ休憩がある。土産も売っており、バスが次々に入ってくる。
パスタ、オリーブオイル、チョコレート、化粧品などが並んでいた。
チョコレートなどの試食があってうれしい。

◆山中で大渋滞にはまった。周りは雪景色だ。
渋滞原因は、工事で3車線が1車線になっていたためだった。

★★フィレンツェ
★(ホテル)「カンファレンス フロレンティア」
◆ホテルは、市街から約8km離れている。周りには何もない。

◆ホテルに着いた時は暗くなっていた。添乗員さんがまとめてチェックイン。
ここで2連泊だ。連泊はうれしい。


◆ロビーは広いが、シンプルだ。
◆部屋は、清潔で問題なし。バス・トイレルームは、大理石が貼られ、豪華だ。




◆夕食は、ホテルのレストランでいただいた。やはり、ここもテーブルに始めからパンが置いてある。


◆今晩は、ビールを注文。飲みやすかった。


◆最初に出たのは、クリームソースのニョッキ。パスタの1種類だ。


◆次は、白身魚とインゲン。トマトケチャップがかけてあり、美味しかった。


◆デザートは美味しいプリン。


◆ツアー客の中に、「今迄の旅行で雨に降られたことがない」というご夫婦がいたのに、
今日は一日中雨だった。よほど強い雨男・雨女がいたのかな?

つづく
  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:16Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月14日

★イタリア旅行記★その5 「世界遺産ベネチア観光」1

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<3日目 2月22日の1> 「世界遺産ベネチア観光」1

★★ベネチア
★(ホテル)「アントニーパレス」(朝食)
◆朝食のメニューは、クロワッサン、ハム、チーズ、ベーコン、タマゴ、
フルーツ、ヨーグルト、ビスケットなど。昨日のホテルと比べて、品数が少なかった。


また、無くなった料理の補充になかなか来なかった。
特に美味しかったのは、クロワッサンだった。

◆本日の出発は8:00。朝から雨。

★バス車内
◆バスでトロンケット港へ向かう。

◆添乗員さんのイタリア情報
・地名のベネチアはイタリア語読み、ベニスは英語読み。
フィレンツェはイタリア語読み、フローレンスは英語読み。

★船
◆バスを降りると、雨が降り、風が強かった。バス駐車場から船着場までの間に露店がある。
ビニールカッパや傘も売っており、買う人も多くいた。
◆イタリア本島トロンケット港から貸切船で水の都「ベネチア本島」に渡る。

★★★世界遺産ベネチア
★ベネチア本島上陸
◆船で約30分、ヴェネティア港で下船。雨風が強い。
現地ガイドは、シルビアさん。背の高い女性で、日本語が上手だ。

★ドゥカーレ宮殿
◆宮殿の牢獄跡前の回廊で、シルビアさんの案内を聞いた。


宮殿は、運河に面して建つ壮麗な建物。9世紀創建で、
14世紀と15世紀に現在のベネチアゴシック様式に改築された。

ベネチア共和国の政治の中心地だった場所である。
今回は予定にないが、総督のかつての居室などが見学できる。

◆宮殿から小運河に架かる橋の一つに「溜め息の橋」がある。
かつて裁判所と牢獄を結んでおり、囚人が橋で溜め息をついたことから名づけられた。


◆宮殿の外側は、回廊となっており、美しい連続アーチで飾られている。


★サンマルコ寺院
◆サンマルコ寺院は、ドゥカーレ宮殿に並んで堂々とした姿で建っている。


◆ベネチアの守護聖人「聖マルコ」を祀るために9世紀初頭に創建された。
堂内は金箔やモザイクの華やかな装飾が施され、黄金の教会の異名をもつ。
今回は予定にないが、宝物館にパラ・ドーロと呼ばれる黄金の衝立やビザンチン帝国の遺品を展示。

◆外観は、曲線と円柱を多用し、金箔のフレスコ画も要所に描かれている。
上部には、ドームや尖塔がある。豪華な建物である。




正面上部には、金色のライオン、その下に4棟の馬のレリーフがある。
ライオンは、サンマルコのシンボルだそうだ。

◆堂内は撮影禁止。大理石がふんだんに使ってあった。
素晴らしい彫像、金箔の天井絵、床のタイル画などを撮影したかった。

★サンマルコ広場
◆世界で最も美しいと讃えられる広場。サンマルコ寺院やドゥカーレ宮殿、店舗などが周りを囲む。
12世紀初頭に整備が始まり、16世紀ころに完成。



◆広場に高さ99mの大鐘楼が建つ。
頂上には、風見鶏の役目をもった金の天使像がある。本日は風が強く、しきりに動いていた。
(エレベーターがあり、フリータイムに鐘楼の上に上り、素晴らしい景色を楽しんだ方もいる。)


◆サンマルコ寺院の左方に15世紀に建設された時計塔がある。



★カフェ フローリアン
◆ベネチアンガラス工房の見学後、約40分のフリータイムが設けられた。
添乗員さんがヨーロッパで一番古い喫茶として紹介した「カフェ・フローリアン」に行くことにした。

◆サンマルコ広場を囲む建物の1階は店舗で、店の前は回廊になっている。
回廊に「カフェ・フローリアン」がある。喫茶の前には、テラス席がある。


◆店の外側も内装もレトロで、大変良い雰囲気だった。


◆店内に入ると、床に金色のライオンのタイル画が描いてある。
壁も天井も華麗な絵画や彫刻で飾られ、別世界である。




◆メニューは、一番安いのがエスプレッソなど6.50ユーロ。
注文したのは、10ユーロのカプチーノ。飲みやすい方を選んだ。


◆白いブラザーのイケメン店員さんが持ってきてくれた。



美味しかった。良い思い出ができた。

つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:46Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月11日

★イタリア旅行記★その4 「世界遺産ベローナ観光」「ベネチア宿泊」

旅行日2018.2.20-27 
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着
<2日目 2月21日の3> 「ベローナ観光」、「ベネチア宿泊」

★★★「世界遺産ベローナ観光」
★ベローナ市街
◆旧市街へは、バスを降りてから徒歩で向かう。ここもバスを停める場所がないのだ。
ベローナの現地ガイドは、マニュエラさん。日本語を話すことが出来る。
マニュエラさんの案内で、旧市街を観光する。

◆橋を渡ると旧市街に入る。


◆旧市街は、古い建物が立ち並ぶ。意匠を凝らし、絵になる建物があちこちにある。




★エルベ広場
◆広場は、趣ある建物に囲まれ、モニュメントが立っている。



◆ベローナの象徴であるマドンナの噴水もある。


◆土産物や日用品を売る露店も軒を連ねているが、客は少なく暇そうだ。



★ジュリエットの家
◆「ロミオとジュリエット」のヒロインのモデルとなったカプレーチィ家の娘が住んでいたと
いわれる13世紀の建物。
中庭にジュリエット像があり、胸に触ると恋愛が成就すると言われる。

◆「ジュリエットの家」には、トンネルになった門を潜って入る。
トンネルの壁には、一面に文字が書かれていた。何が書いてあるかわからない。
トンネルの入口から混んでいた。


◆トンネルを潜ると中庭になり、そこも混んでいた。大勢の観光客が訪れていた。


◆中庭の隅にジュリエット像があり、胸に触れて記念撮影をしていた。彼女の胸は金色に光っていた。


◆ジュリエット像の左にある扉には、ハート形などの赤い鍵がたくさん掛けてあった。
恋愛成就の祈願スポットらしい。



◆建物内に入ると、バルコニーや物語をテーマにした絵画などを見学できるが、今回は予定にない。


★ベローナ市街
◆アレーナへ移動途中も、街風景や店を見てキョロキョロ。


◆道は、ベローナ近郊で採掘される紅大理石でできている。


◆ウインドウを美しく飾っている店をよく見かける。古い建物を利用した新しい店がたくさんある。



★「アレーナ」と「ブラ広場」
◆アレーナは、紀元1世紀に建造されたローマ時代の円形闘技場。
イタリア国内では、ローマのコロッセオに継ぐ規模で、約2万5千人を収容した。

◆アレーナは、外観観光のみ。2階建ての連続アーチが美しい。



◆ブラ広場は、アレーナの前にあり、カフェなどが並んでいる。約20分のフリータイムが設けられた。




◆広場に面したカフェの後ろには、美しい回廊があった。


◆広場の外、ローマ通りには、時計のあるアーチ門があった。


◆ローマ通りの角の建物は、円柱が美しく並ぶ。



★ベローナ市街
◆バスへ向かう途中、黄色の立派な建物があった。ここも柱が美しい。


◆高い旧城壁の横を歩いた。城壁は、レンガや石が混ざっていて美しい。


★★★「ベネチア宿泊」
★ホテル「アントニーパレス」夕食&宿泊
◆ホテルは、旧市街ではなく、郊外にあって周りに何もない。
1990年にオープン、丸く弧を描く近代的な建物である。



◆ロビーは、白い柱、天井から赤いミニシャンデリアが下がる。



◆添乗員さんがまとめてチェックイン。
カードキーを受け取り、部屋へ入ると、壁に3つの黒い長方形の物があった。
電気を点けるためのカードキー差込口がどれか、すぐにはわからなかった。
それは左下であるとわかるのに、少し時間を要した。


◆清潔な部屋で、快適だ。ツインのベッドは、くっつけたあった。


◆バス・トイレルームには、洗面の脇に大型の拡大鏡が設置してあった。珍しい。
近づくと毛穴もはっきりと見えた。


◆夕食は、ホテルのレストランでいただいた。
美味しいミネストローネスープだった。


◆メインは、白身魚の香草焼とポテト。ポテトは塩味が強かった。


◆デザートのアップルケーキは甘すぎず、美味しかった。


◆今日は充実した一日だった。だが、たくさん歩いて疲れた。おやすみなさい。

つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 17:59Comments(0)イタリア旅行記

2018年03月10日

岐阜市<瑞龍寺>「美濃国守護・土岐成頼公」「守護代・斎藤妙椿公」墓所 (武将のお墓参り33)

2018.3.10(土)
美濃国ゆかりの武将のお墓参り

★瑞龍寺★ 岐阜市寺町19
美濃国守護「土岐成頼公」と守護代「斎藤妙椿公」の墓所

◆瑞龍寺は、雲水の修行道場であり、通常は非公開である。
しかし、毎年3月に開催される「ぎふ梅まつり」に合わせて、2日間のみ一般公開される。

◆梅林公園へ続く殿町本通りに「金寶山瑞龍寺」の標柱が立ち、参道には松が植えてある。
◆山門の先が境内になっており、突き当りの本堂まで美しい松並木がつづき、両脇に塔頭が並ぶ。



◆突き当りの本堂には、「ぎふ梅まつり実行委員会」の方たちがいて、
「瑞龍寺拝観」のチラシをいただけた。


◆土岐氏家紋の「桔梗紋」が、屋根瓦や本堂内の釘隠しなどにも使われていた。


◆本堂前には梅の古木があり、赤い花を咲かせていた。


◆本堂に参拝、合掌。
ご本尊の両脇の間には、日展理事「土屋禮一画伯」作の障壁画「蒼龍」と「瑞龍」があり、必見だ。

◆さて、美濃国守護「土岐成頼」公と守護代「斎藤妙椿」公の墓所の公開は、
瑞龍寺一般公開と同日であり、年に2日間のみである。

◆本堂前の左側に高い生垣があり、立札「県指定史跡 土岐成頼の墓・斎藤妙椿の墓」がある。



◆カーブした道を進むと、広場(駐車場)に入る。
◆広場の左にたくさんの石造観音像などがあり、その右側に墓所への入口がある。


◆小さな門を潜り、木立の中の石段を上る。上った先が墓所だ。



◆墓所に看板があり、次にように記されている。
「岐阜県指定史跡 土岐成頼 斎藤妙椿墓 
土岐成頼は康生二年(一四五六)一五歳で、美濃国守護土岐持益の養子となり、
左京太夫美濃守となった。

応仁の乱では山名氏に従い、始終京都にあって西軍の有力武将として一一年間転戦した。
文明九年(一四七七)和平成立後、足利義視、義稙父子をともなって帰国した。
明応六年(一四九七)五六歳で病没し、ここに葬られた。 

斎藤妙椿は土岐家の守護代で、主君成頼が京都で転戦している間在国し支配権を確立し、
さらに近江、越前など近国にも勢力を拡大していった。

他方、歌人でもあった妙椿は文化人の保護者でもあり、美濃で連歌が華やかに行われた時代を築いた。
応仁元年(一四六七)頃、主君成頼のために瑞龍寺を建立した。
妙椿は文明一二年(一四八0)七十歳にて没しここに葬られた。」

◆墓所の左端が「土岐成頼公」墓所。四角く石柱で囲まれた中に、自然石の小さな墓碑があった。合掌。



◆左から2番目が、「斎藤妙椿公」墓所。同じく石柱で囲まれた中に、墓碑がある。合掌。



◆塔頭のひとつに「斎藤妙椿公」画像があるが、拝観ができず残念だ。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:29Comments(0)武将のお墓参り

2018年03月10日

★イタリア旅行記★その3 「ミラノ観光」2

旅行日2018.2.20-27
阪急交通社トラピックス「★イタリア決定版8日間★」 中部国際空港発着

<2日目 2月21日の2> 「ミラノ観光」2

★ドゥオモ(ミラノ大聖堂)
◆「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア」を抜けると、ドゥオモ前広場に出る。
広場の左方には、ドゥオモ(ミラノ大聖堂)の堂々たる姿があり、その大きさと美しさに圧倒された。


◆約1時間のフリータイムが設けられた。
◆当ツアーではドゥオモは外観観光のみであり、添乗員さんからドゥオモ入場希望者の確認があった。
大勢の希望があり、添乗員さんがまとめて切符を購入してくれた。(後にバス車内で3ユーロ支払う)

◆ガイドブックには、「聖堂としては世界2位の規模を誇り、イタリア最大の華麗なるゴシック聖堂。
聖母マリアに捧げるために建設され、1813年に完成。

最大の特徴は、金銀細工が施された135本の尖塔と、柱や壁を飾る3400体以上の彫像が素晴らしい。
最も高い108mの中央尖塔には4mの黄金のマリア(マドンニーナ)像が輝いており、
市内にはこれより高い建物を建ててはいけないとされる。
内部のステンドグラスも見事。」とある。

◆建物の外部は、彫像により飾られている。
様々な神話や物語の一場面などが、美しい彫像で表されているのだ。


◆入口前には兵士がいて、厳重な手荷物検査がある。検査前に、ポケットの中身は出しておいた方が良い。


◆堂内は、薄暗くて静かだ。撮影可能だが、フラッシュは禁止。
◆天井は高く、広い神聖な空間が広がっていた。
太い柱が並び、ステンドグラスがあちこちの壁を飾っている。




◆立派な彫像や絵画が、いくつも飾られている。素晴らしい!!



◆立派で美しいステンドグラスは、鮮やかな赤色と青色が印象的だ。



◆黄金のマリア像は、レプリカが堂内の奥にも立っており、金色に輝いていた。



◆堂内には、お祈りに来ている人たちもいる。


★ドゥオモ前広場
◆広場には、立派な騎馬像が立っている。初代イタリア国王のヴィットリオ・エマヌエーレ2世だ。


◆広い広場の周りは、ドゥオモやガレリア、古い建物に囲まれている。


◆広場には、ハトや写真を撮っている人ががたくさんいる。


◆隅には、パトカーが停まっていた。緑色のラインが入っている。


◆バイクステーションもあり、自転車が並んでいた。Mマークは、地下鉄の入口である。


★ミラノ市内のレストラン(昼食)
◆バスで移動してレストランへ行き、昼食。パンがテーブルの上に置いてある。
リゾット・ミラネーゼは、なんと平たい皿で出てきた。


◆ミラノ名物のミラノ風カツレツ(サラダ添)は、平たく伸ばしてあった。美味しい。


◆デザートは、パンナコッタ。プリンより、少し固め。これも美味しい。


つづく  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:30Comments(0)イタリア旅行記