2018年12月02日

岐阜県山県市<中洞白山神社>明智光秀公の墓 (武将のお墓参り40)

美濃国ゆかりの武将のお墓参り「明智光秀公の墓」
2018.12.2(日)参拝


◆岐阜県山県市中洞の(中洞)白山神社に「明智光秀公の墓」がある。
国道256号の美山第一トンネルを北に抜け、右(東)に曲がると直ぐに細い旧道に入る。
旧道を左に進み、国道下を潜る。


ナビなら、「山県市中洞932-2、ウエルカモ美山(旧美山バルバリー)」を目標にし、
その前の道を北に進むと良い。

◆突き当りの山麓に白山神社がある。


◆橋を渡ると神社の境内に入る。午前9時半頃に到着、さほど広くない境内に車を停めた。


◆神社の入口左側に案内板「明智光秀公の墓」が立っている。


そこには次のように記されている。
「明智光秀公の墓(古文書を要約)
この地、中洞古屋敷白山神社の一角にある高さ一0六cmの石塔と高さ一一二cmの五輪の塔は、
まさしく明智光秀公の墓なのです。

天正十年(一五八二)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者荒木山城守行信でした。
光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」、恩義を深く感じての「深」で、
自らも荒深小五郎と名乗り、西洞寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいました。

その後、光秀は雲水の姿となって諸国遍歴に出たのですが、
十八年後の慶長五年(一六00)関ケ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発しましたが、
途中根尾村の藪川の洪水で馬と共に押し流され、おぼれ死んだため、
死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬しました。

以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回の供養祭を行っています。

光秀公の義弟、明智孫十郎直経の墓は、この地より国道に出て一Km北へ行ったところに
ありますのでお帰りの際、お立ち寄り下さい。  山県市」

◆案内板の右後ろに「光秀公ゆかりの うぶ湯の井戸跡」とあり、木製の井戸枠がある。


◆境内入口の右側には、木製の案内板があり、
「荒深小五郎の名でこの地に住んでいた 明智光秀公の墓⇒ 
供養祭 四月第二日曜日、十二月第一日曜日」と記されている。


◆境内に数台の車が停まっており、ちょうど地元の方たちが供養祭の準備をしているところだった。
お忙しいとは思ったが、声をかけたところ、チラシ「明智光秀公ゆかりの地を訪ねて」をいただき、
お話を伺うことも出来た。感謝。


◆供養祭の準備をしている方たちは、光秀公の子孫である荒深氏だそうだ。
供養祭は午後二時からで、私は都合がつかず参加できなかった。残念。
なぜ年二回も供養祭があるか尋ねたが、よくわからないそうだ。

◆供養祭が行われる参集殿


◆参集殿の左側に建つ「阿弥陀如堂」の扉が開いており、中の宝物を見せていただいた。


◆建物正面の壁に「阿弥陀堂の由来」が貼ってあり、次のように記されている。
「阿弥陀堂の由来
天正十七年(一五八七)光秀公の母が明智頼武(光秀公の弟)に土岐祖先の菩提を弔うため建立した。
母は自ら仏門に帰依し禅の道に一生を捧げ、天文十一年(一五四二)に大源寺を建立し自ら庵主となり、
後に弟子の月定宗輪禅尼に譲り仏光山西洞寺に入る。(庵の庭)

阿弥陀三尊 一、左尊 木造観音菩薩立像で観音像は両手に蓮台を捧持している姿である
一、中尊 木造阿弥陀如来立像 
一、右尊 木像勢至菩薩立像で勢至菩薩は合掌している姿である 

阿弥陀は観音と勢至を伴って両脇侍として三尊をなしており、
観音は宝冠の中に化仏をつけている、勢至は宝冠に宝瓶をつけている。

阿弥陀如来は西方極楽浄土に往し、四十八の大願がありてその一つである往生願は、
「この如来に念仏するものは必ず極楽浄土へ往き無限の生をうけることができる」と約束されている。
これは所謂来迎菩薩の相という。

また、光秀公は幼少の頃より聡明にして文学軍学兵法を学び、敬神の念も厚く白山神社(氏神)を
崇敬していたため、この白山神社は学問並びに出世の神様と言い伝えられている。」

◆阿弥陀堂内部には、正面に阿弥陀三尊像、
左側面に明智光秀公のご位牌や肖像画などが祀られていた。合掌。(了解を得て撮影)
10時半頃には供養祭の準備が終わり、阿弥陀堂の扉は閉じられ、地元の方たちは一旦帰宅された。


◆「明智光秀公の墓」への入口は、境内入口左にあり、案内板と石柱「灮秀墓」が立っている。
参道沿いには幟「明智光秀公の墓」が立ち並んでいる。


◆参道を進むと右に直角に折れ、緩い坂道となる。杉林の参道の突き当りに墓所が見えてくる。


◆墓所は整備されおり、墓碑と板碑が並んでいる。合掌。


◆明智光秀公の墓碑は、左に五輪塔、右に宝篋印塔。
左後方に石柱があり、「惟任将軍日向守光秀公之墓」と刻んである。


◆板碑には「灮秀卿古墳縁由 當國ノ太守・・・」と桔梗塚の由来を記してある。


◆いただいたチラシは旧美山町(合併して山県市)の発行で、随分昔に作成されたものだ。
表面には「光秀公は山崎の合戦で死んだのではなく、実は、そのとき死んだのは影武者であり、
ひそかに郷里中洞に落ちのびて荒深小五郎の名で住んでいた。」とある。


◆裏面に「明智光秀公ゆかりの地 美山町」として、次の記載がある。
「明智光秀は、美濃国美山町中洞の古屋敷で生まれたのである。

光秀公の遠祖は、土岐氏の流れを組む明智氏の一族で、
土岐美濃守の臣土岐四郎基頼と中洞の豪族中洞源左衛門の娘お佐多(のちに松枝と名乗る)との間に
大永六年(一五二六)八月十五日、長男十兵衛尉として生まれたのである。

また、光秀公の母が懐妊していたとき、岩の上に立って清流に水ごりして、
天下に将たる男子か然らずんば秀麗の女の子を授け給えと祈った行徳岩も
西武芸地内井ノ口用水の下方武儀川左岸にある。

十兵衛尉生まれてから母は中洞古屋敷にある白山神社を崇敬し、学問並に出世を祈願した為、
十兵衛尉は幼少の頃より聡明であったと言われている。
以来この地の山中にひっそりとこもった白山神社は学問と出世の神として地域の人に崇められている。

時を遷て、十兵衛尉七歳のとき、父基頼は病死してしまった。
このとき祖父中洞源左衛門は、亡き基頼の遺托をうけ、美濃国可児郡の明智城に伴い、
明智光綱に預けて,軍学兵法を学ばせ、土岐家の再興を図ったのである。

光綱は、預かった十兵衛尉の利発賢明を喜び、軍学兵法を教えるかたわら
文学をも学ばさんと多治見虎渓山永保寺に通わせたのである。

やがて光綱は、祖父源左衛門に懇願して十兵衛尉を養子として迎えたが十一歳のとき、
光綱は病死してしまった。そのため光綱の弟光安が城主となって、亡兄の志を継ぎ、
十兵衛尉を光綱の後継者として養育に心がけ元服して明智光秀と名づけ、後の日向守光秀となったのである。

明智氏は、土岐氏が衰えてからは、斎藤道三に従い、その子義龍と明智氏は君臣水魚の交わりとなった。
光秀も道三の保護指導をうけて勉学にはげむかたわら戦術兵法、鉄砲術をも伝授し、
また茶道についても京都仕込みの道三から学んだと言われている。

一方斎藤道三は、岐阜城を乗っとり息子の義龍に譲り自分は鷺山城に移り隠居していたところが、
義龍が謀反を起して父道三を攻め殺してしまった。

それを知った明智光安は怒って義龍と絶交するとの使者を送ったため義龍は、光安の態度に立腹して、
三千余騎の兵を立てて長山城を攻めたてた為、「もはやこれまでと知った」光安は、
光秀に「後日明智の家名をあげるため、ひとまずここを落ちのびよ。そしてわが子弥平治光春(秀満)と
甥の次郎光忠をたのむ」と言い残して城と運命を共にした。ときに弘治二年(一五五六)九月二十六日であった。

光秀は逃れて揖斐郡谷汲村府内に身をよせたが、やがて京都嵯峨の天龍寺へ落ちのびた。
ここに落ち着いた光秀は光春を伴い諸国修業の旅に出た。

北は越後の地で上杉謙信の弓矢の道を学び、駿河では今川義元の仕置を学び、
さらに伊勢から泉州堺に出て学識経験を積むこと六年、永禄八年(一五六五)三十八歳で
越前一乗谷城主朝倉義景に仕官し、十五代将軍足利義昭にも仕官、

ついで永禄九年(一五六六)信長に仕官して順次出世、
近江坂本城十八万石、丹波亀山城三十六万石併せて五十四万石の大名に累進した。

時を経て、天正十年六月三日(一五八ニ)羽柴秀吉との山崎の合戦に光秀利あらずして勝龍寺に引き上げ
最後の戦に末子の乙寿丸を伴い共に自害しようと近州観音寺に待期していた。
その時家臣の荒木山城守行信たちが馳せ参じ、
「まだ最後の時にあらず、此の処を一時のがれて再興を謀り給え」と光秀の脱げ捨てた鎧冑に具足を着て
身代わりとなり家来共々敵中に討ち入りて華々しく戦った。

山崎の合戦で、光秀は死んだのではなく、乙寿丸、中洞又五郎と共に百姓姿となって、
ひとまず洛中し大徳寺で味方の最後を見届けていた。
翌日、山城守は光秀の影武者となって山崎で討死した。

光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと自ら恩義を深く感じて、
荒深小五郎と名乗り中洞又五郎に導かれ郷里美濃国中洞に帰って隠宅を建て乙寿丸と共に住んでいた。

天正十七年(一五八九)乙寿丸は十五歳に成長し荒深吉兵衛光頼と名乗った。
光秀は後々のことを中洞又五郎に托して雲水の姿となって諸国遍歴に出るかたわら
羽柴秀吉の敵と味方の大名を探しまわった。

慶長三年(一五九八)春江戸に至り、ひそかに家康と逢い諸大名の様子を談ずると家康は大いに喜び、
光秀の子孫を大名に取り立てることの約束をして帰国した。

後の慶長五年(一六00)八月関ケ原の合戦に東軍に参加するため一族郎党を引きつれて出陣の途中、
おりからの増水した藪川(根尾川)で馬共に押し流されて水死した。
時に慶長五年九月十五日、七十五歳であった。

その遺骸を又五郎らが持ち帰り中洞古屋敷に葬った。これが「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀公の墓である。」


◆昔は荒深氏の住む民家が神社周辺に何軒かあったが、今は少し離れた所に住んでいるそうだ。
昔は絵馬を授与していたが、今は境内に掛けられている古い絵馬で偲ぶしかない。

◆境内入口右側に「光秀公が生まれた庵の庭跡地⇒ 山中」の案内標識がある。
その光秀公の母ゆかりの地は、神社の北東の山上にある平地で、登山道があって行くことが出来るそうだ。
矢印の向きは間違っている。


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 21:45Comments(0)武将のお墓参り

2018年07月23日

岐阜県関市迫間<大雲寺> 旗本迫間大嶋家墓所 (武将のお墓参り 39)

2018.7.18訪問 
<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
★(迫間)大雲寺 岐阜県関市迫間1184
旗本「迫間大嶋家」の菩提寺・歴代墓所(初代光俊公~七代義順公)


◆訪れた7月18日は、迫間大嶋家初代(雲四郎)光俊公の命日で、
毎年「十六善神祭」が行われ、寺宝の公開と法要がある。

◆大雲寺は、関市内中心部にもあるが、そちらは大嶋雲八光義公(光俊公の父)の菩提寺・墓所である。
こちらは、関市の東南部に位置し、周りは山の静かな里である。

◆寺の周りに「大嶋雲四郎」ののぼりが立ててあり、
境内入口に「十六善神祭」などのポスターが掲示してあった。


◆今年の「十六善神祭」の内容は、次の通り。
13:00~13:30 ミニコンサート「クラビノーバ演奏で先祖を偲ぶ」
13:30~13:40 解説「豊中市大島町 大島鳩恩会来訪と六代目義苗公」
13:40~14:40 歴史講座「大嶋公と美濃の武将たち」
14:40~15:00 大嶋公供養、15:00 お餅配り

◆本堂で、寺宝の「十六善神」と「十六羅漢」の軸、六代義苗公愛用の鎧兜が公開され、
間近で拝見することができた。

十六羅漢は、個性的な姿でユニークだ。


◆十六善神は、雷除けに御利益があるそうで、手作りのお守りや御札を販売していた。
落ちないということで、合格祈願の受験生も求めるそうだ。

◆本堂には、大嶋雲八光義公(光俊公の父)と迫間大嶋家歴代の御位牌が祀ってあり、
本日の司会を担当される酒井氏(関市甲冑同好会)の案内で拝見することが出来た。

◆本日は、大嶋雲八光義公と大嶋雲四郎光俊公(光義公の三男、迫間大嶋家 旗本初代)の
御位牌は、ご本尊の前に並べてあった。合掌。


◆他の方の御位牌は、ご本尊の左側にあり、6段に並んでいた。合掌。


◆本堂の壁に、「大嶋家系図」や「大嶋雲八光義公」「大嶋雲四郎光俊公」他の略歴が掲示してあった。
系図などの一部史料は配布され、持ち帰ることが出来た。ありがたい。



◆本堂のすぐ左手に大嶋家歴代の墓所があり、本堂からも立派な墓碑を見ることが出来る。


◆墓所へ行くには、本堂左に建つ観音堂の左の3段の石段を上る。


◆観音堂の後ろに回り、突き当りの山際が迫間大嶋家の墓所である。


◆立派な墓碑が3列に並ぶ。合掌。(境内も墓所もきれいに整備されている。)
当主たちの墓碑は上段で、他の墓碑よりも立派だ。


◆前列右端に石柱で囲まれた墓所があり、真ん中の石柱に「光重公墓」と刻まれている。
これは、大嶋光俊公(別名は光重)の墓である。囲いの中に墓碑はなかった。


◆上段の当主たちの墓碑は、9基並んでいる。
右から順に、七代義順公(よしのぶ、高勝院殿)、二代義治公(よしはる、大久院殿)、
初代光俊公(みつとし、巨積院殿)


◆次(右から四番目)は、大嶋雲八光義公(大雲寺殿)の墓碑である。


◆次は、二代義治公の弟光隆公(養浩院殿)、三代義雄公(よしお、性圓院殿)、
四代?の室(妙成院殿)、四代義高公(よしたか、大智院殿)、五代義敬公(よしゆき、大通院殿)、
六代義苗公(よしみつ、法名は削れて判読不可)である。


◆本日は縁あって、「大嶋雲四郎光俊公」の401回忌法要に参加することが出来た。
寺宝なども拝観できた。関係者の方々に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:35Comments(0)武将のお墓参り

2018年07月16日

岐阜県羽島市<願教寺> 稲葉山(岐阜)城主「斎藤龍興公」墓所その2 (武将のお墓参り38)

2018.7.16訪問
≪宝積山 願教寺≫ 岐阜県羽島市足近町市場71
織田信長公に追い出された斎藤龍興公(道三公の孫)のお墓参りをした。


◆『足近町歴史点描』に次のように記載されている。
【・稿本美濃誌には次のように記している。

「天正年中、斎藤竜興が石山で雑兵に混じって信長と戦った時に、
勢州長島願教寺第三世了願もまた石山にあって竜興と好を結んでいた。

天正八年信長と石山の和解が出来て共に美濃に帰り、当(足近)中島に住んだ。
天正十年五月五日、竜興が自刃したので了願は、佐波村字本養に本養寺と云う
元天台宗の寺があり、荒廃して塔頭誓浄坊だけが残っていたのと生国の願教寺を
移し合せて一宇を建立し、願教寺と称した。同寺に斎藤系図が残されている。

境内に竜興のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)あり。
「華貞院竜興 天正十年五月五日」

・寺に斎藤義竜の位牌「円城院殿釈義竜 永禄四年五月十六日薨」と記され立派。

・竜興の墓は二説ある。羽島説では「越前朝倉氏滅亡の時、竜興自身は甲冑を
臣下に着せ替えて戦死とみせかけ影武者となる。やがて石山において再び信長と戦う。

願教寺第三世了願を伴い美濃国直道村(現 足近町直道)へ来る。
この地にてひそかに再興の機をうかがうが、事ならず。天正十年五月五日自決する。
よって、この願教寺に墓がある。」

墓が小さく作られているのは、戦国の世において敵側の目をはばかるためと言われている。】

◆『羽島市史』にも同様の記載がある。そこで、願教寺を訪れることにした。
お寺は、神社の隣りにひっそりと建っていた。

◆ご住職にお会いしてお話を聞くことができ、
龍興公の五輪塔や斎藤氏三代の御位牌を拝見することが出来た。
そして、写真撮影とブログ掲載も快く了解いただいた。

◆ご住職と一緒に本堂へ入った。中央にご本尊、左に斎藤氏三代の御位牌が並んでいた。
ご本尊に合掌。

◆御位牌の後方には、東洋大学の井上氏書の掛軸「前金華山城主 斎藤家菩提所」と
「源平 洲俣合戦古跡」が掛けてあった。


◆御位牌は、右端が斎藤義龍公で表に「圓城院殿釋義龍」、
裏に「永禄四年五月十六日薨 謹菩提所願教寺納之 齋藤氏嫡流」と記されている。

真ん中が龍興公で表に「華貞院殿釋龍興」、裏に「天正十年五月五日薨 菩提寺納之 齋藤氏一族」、

左端が小兵衛義仁公(龍興公の子)で表に「圓融院釋義仁」、
裏に「寛永元年六月十二日卒 爲小兵衛菩提願教寺納之 齋藤氏」とある。



御位牌は、後世になって子孫の方が作ったらしい。

◆龍興公のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)は、
盗難防止のため本堂内に安置されており、奥から出して見せていただいた。
高さ35センチ程の大きさであった。合掌。


◆当寺は、大正時代に現在地へ移転。
旧地には龍興公の墓である塚があり、その上に大きな松と一石五輪塔があったそうだ。
移転後は農地となり、全て跡形もない。

旧地の墓地から骨片を集め、現在地の鐘楼南の「南無阿彌陀佛」石碑下に納めたそうだ。合掌。


◆ご住職の親切なご案内のおかげで、本では分からない事を知ることが出来た。
また、ご夫人の冷茶の御接待がありがたかった。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:02Comments(0)武将のお墓参り

2018年06月09日

岐阜県恵那市岩村町<乗政寺城主墓地>岩村城主丹羽家廟所&松平家乗公廟所 (武将のお墓参り37)

美濃国ゆかりの武将のお墓参り
2018年6月5日訪問

岐阜県恵那市岩村町殿町122、恵那特別支援学校の北側
≪乗政寺城主墓地(大名墓地)≫の岩村城主丹羽家廟所と松平家乗公廟所


◆NHK朝ドラ「半分、青い。」で注目を浴びている岩村を訪れた。
その日は、ちょうど本町商店街で俳優の佐藤健君らが撮影をしているところだった。
ロケ地を遠巻きに見てから、商店街で五平餅を食べた。その後で岩村城主の墓参に向かった。

◆坂に沿って商店や飲食店が立ち並び、坂の上は岩村城跡に繋がっている。
岩村城跡の麓、商店街の外れに乗政寺城主墓地がある。
乗政寺城主墓地は、案内パンフレットには「大名墓地」と載っている。
そして、山の斜面にある墓地の下方入口には、「乗政寺山墓地」と刻んだ石標がある。


◆道路から坂を少し上ると、案内板「岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地」があり、
次のように記してある。
【慶長六年(一六0一年)松平家乗(大給松平本家)が岩村城主となり、この地に龍巌寺を建立した。
寛永十五年(一六三八年)に松平氏は浜松(静岡県)へ移り、
三州伊保(愛知県豊田市)から丹羽氏がきて妙仙寺とした。

元禄十五年(一七0二年)に丹羽氏は越後高柳(新潟県)へ移り妙仙寺も同地へ移った。
丹羽氏の後へ信州小諸(長野県)から大給分家の松平氏が移り、
小諸城内にあった乗政寺をここへ移した。

この地は由緒ある地で城主や家臣の墓が多い。
乗政寺は明治四年(一八七一年)に廃藩置県となり住職も死んだのを機会に廃寺とし、
寺佛等を縁の深い隆崇院へ移管し建物も壊した。

城主の墓は、松平家乗、丹羽氏四代、分家松平氏の乗薀嫡子で林述斎の兄の乗国ほかがある。
特に丹羽氏の墓は巨大であるが、若くして死んだ丹羽氏明の墓は六地蔵を配してある。

分家松平氏家臣の墓も多く、役家の丹羽瀬、大野、佐藤家等や講談で知られた小兵の居合抜きの
名人「美濃の小雀」こと井野猪左衛門の墓、東京の実践女子学園の創設者で、
愛国婦人会長となった明治、大正の女傑下田歌子女史の墓もここにある。

この墓地一帯の山を今も乗政寺山と呼んでいる。】

◆岩村城主丹羽氏の廟所は、案内板の左にある階段を上り、突き当りを右に上った所にある。


◆入口に「岩村城主 丹羽家廟所」の石柱が建つ。廟所は山腹に横に広がっている。合掌。


◆右方に氏信公(左側)とその母(右側)の墓碑が並ぶ。


案内板に次のように記してある。
【丹羽氏信墓 丹羽氏初代岩村城主 三河伊保(現豊田市)より転封し、正保三年(一六四六年)没。
●●当初の御霊屋が朽ちたので、約百年後に法名と経過を刻んだ石柱を西川玄益が建てた。】

【丹羽氏次室 丹羽氏信母墓 長久手の戦いで大功たてた丹羽氏次の室で岩村城主丹羽氏信の母である。
当初の御霊屋が朽ちたので約百年後に法名と経過を刻んだ石柱を西川玄益が建てた。】一部判読不可

◆石柱「岩村城主 丹羽家廟所」の後方に、丹羽氏定公の墓碑があり、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏定墓 丹羽氏二代岩村城主 明暦三年(一六五七)没。桃蕚山妙法寺を開創した。
当初の御霊屋は朽ちたので、約八十年後に法名と経過を刻んだ石柱を●●】一部判読不可


◆その左方に四基の巨大な墓碑が並ぶ。右端「實相院殿・・・大姉」は三代氏純公の室、
右から二番目「曹渓院殿・・・大姉」は初代氏信公の室の墓碑である。


◆さらに左方には、丹羽氏家臣の墓が七十基ほどが積まれた無縁供養塔がある。
無縁供養塔の左奥にお地蔵さんがあり、その後方にも丹羽氏の墓碑が並ぶ。


◆右方には丹羽氏春公の墓碑があり、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏春墓 丹羽氏初代岩村城主氏信の三男で分家した。四代岩村城主丹羽氏明が急死したので、
氏春の次男氏音が養子し五代岩村城主となった。元禄九年(一六九六)没。】


◆その左は丹羽氏明公の墓碑で、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏明墓 丹羽氏四代岩村城主 貞享三年(一●八六年)疱瘡により二十歳で没す。独身。
若くして没した●●、地蔵、灯籠等を配し大●●かで、もっとも立派で●●】一部判読不可


◆お地蔵さんの真後ろは丹羽氏純公の墓碑で、案内板に次のように記してある。
【丹羽氏純墓 丹羽氏三代岩村城主 明暦三年(一六五七)家督相続。延宝二年(一六七五)岩村にて没す。
三十八歳。氏純は大将陣に五仏寺を建て秋山信友夫妻らの霊を弔った。】 


◆その左方「芳春院殿・・・大姉」は、二代氏定公の室の墓碑である。


◆岩村城主松平家乗公廟所は、案内板「岩村町指定史跡 乗政寺城主墓地」を右に進み、
緩い坂を上った奥にある。合掌。


◆石垣の上に墓碑があり、案内板に次のように記されている。
【松平家乗墓 大給松平本家初代岩村城主 慶長十九年(一六一四)岩村城にて没。
当初は大きい御霊屋を建て、位牌等を安置していたが●●朽ちたので、石柱を建て墓●刻●】一部判読不可



もうひとつの案内板「岩村城主松平家乗公廟所」には、次のように記してある。
【松平家乗公略歴 
天正三年  三河国大給(現豊田市大内町)に生まれる。父真乗。幼名源次郎。
天正十年  八歳にして父の遺領を継ぎ、大給を領す。
天正十五年 徳川家康の御前にて元服、家康の家の字を賜り家乗と名乗る。
天正十八年 小田原の陣に従軍。家康公関東入国のとき、上野国那波(現群馬県伊勢崎市)一万石を拝領。

慶長五年  関ケ原の戦には、三河国の吉田城を守る。
慶長六年  美濃国岩村二万石を拝領。
慶長十九年 二月九日 岩村城にて卒、四十歳。 法名「大聖院殿乗誉道見大居士」 
嫡男乗寿が後を継ぎ、寛永十五年岩村から遠江国浜松に移され三万六千石余を領す。

後、上野国舘林に移され六万石余を領す。慶安四年老中となる。その子孫は、奏者番・寺社奉行・大坂城代・
京都所司代など幕府の重職を勤め、特に乗邑・乗完・乗寛・乗全は老中として幕政に活躍した。
所領は美濃国岩村ー遠江国浜松ー上野国舘林ー下総国佐倉ー肥前国唐津ー志摩国鳥羽ー伊勢国亀山ー
山城国淀ー下総国佐倉ー出羽国山形と替り、三河国西尾で明治維新を迎えた。】

◆松平家乗公廟所の上方左に松平家供養塔がある。(写真の中央の坂を上り、突き当りを左奥の方へ上る。)


◆大きな五輪塔が四基、お地蔵さんが一基並んでいる。合掌。


右端の五輪塔の案内板に次のように記してある。
【松平真乗供養塔 大給松平本家初代岩村城主松平家乗の父で、天正十年(一五八二)没。
三十七歳であった。家乗が岩村在城中の慶長十五年(一六一O)に父の冥福を祈って建てた。】

右から二番目の案内板には【松平乗国供養塔 乗国は大給松平分家三代岩村城主松平乘薀の長男で、
明和七年(一七七O)九歳で没した。林述斉の兄である。実母は供養塔を建て、法華経一千部を手書きして埋めた。】

三番目は「乗友公(大成院殿、四代乗保公の長男)供養塔」であるが、案内板は朽ちていた。
左端「松樹院殿供養塔」の案内板は見当たらない。

◆後日、図書館で調べたところ、「岩村町史」に次のように記載されていた。
【乗政寺経塚 
松平家供養塔が四基ある。盛塚はなく石垣で囲まれた地域内に四基が行儀よく並んでいる。
それは左の如くである。

梅香院殿清岸道翁大禅定門 (松平真乗) 慶長十五年七月
松樹院殿栄誉盛吸大信女 (松平家乗室) 寛永九年八月一日
大成院殿仁雄知道大居士 (松平乗友) 享和元年六月十八日
玄達院殿踏雲幼光大童子 (松平乗国) 明和壬辰十一月大祥日

これは塚はないが、やはり経塚であって埋経して建てた石供養塔で、決して墓ではない。
それは銘記の文章で明らかである。

先ず松平真乗は岩村初代城主松平家乗の父で、天正十年三月に没した人である。
慶長十五年家乗が岩村在城中に父の冥福を祈って建てたものである。

次の松樹院の供養塔は、寛永九年に松平乗寿が実母松樹院のために逆修として供養したものである。
松樹夫人は松平家乗の正室であり、大垣城主石川康道女である。
寛文元年十月に没したのであるが、この塔の建てられた寛永九年はまだ存生中である。
生前中に仏事供養をすることを逆修という。塔前に逆修也とある。

大成院殿は松平乗友で、松平乗保の嫡男である。享保元年六月十八日、二十歳で江戸で没した。
まだ相続していなかったので世代に入らないが、任官もし正室を迎えていた。
時期さえ来れば当然乗保の後を受けて藩主となるべき人が早世の故に部屋住の内に終わったことは、
父乗保も実母も悲歎が深く、上野春性院に墓を建てると共に岩村に供養塔を建てたのである。

玄達院は松平乗国で城主松平乘薀の嫡男である。三男は乗衡で後の林述斎である。
乗国は長男として生まれ、幼名永之助といった。成長すれば当然城主となるべき人であったが、
僅か九歳で明和七年十一月九日没したのである。
嫡男であったから上野春性院の墓地に歴代当主と列べて葬られたが、実母はその悲しみに耐えず、
国元岩村に供養塔を建てたのであるが、自ら法華経一千部を手書きして埋めた。
五輪塔の礎石に長文の銘文を刻した。】

以上  


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2018年05月13日

岐阜県八百津町<大仙寺>和知城主「稲葉氏」墓所、豊後高田藩主「松平重直公」墓所 (武将のお墓参り36)

2018.5.1参拝
<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

★★『大仙寺』 岐阜県八百津町八百津4345-1
大仙寺は和知城(稲葉城)主稲葉氏菩提寺で、城主四名の墓碑がある。
また、豊後高田藩主「松平重直公夫妻」の墓所でもある。


★稲葉氏について「八百津町史」には、
【稲葉一鉄の末子右近大夫方通(初代)は、安八郡西保城(神戸町)より、
天正十八年(1590)和知に移封され、和知城を築き城主となった。

関ケ原の役に東軍に属して功をたて、四千四百三0石を賜う。
元和三年(1618)徳川家康の命により、尾張藩義直卿に附属せしめられた。
寛永十七年十月1日卒。大仙寺に葬る。
墓碑・鐡巌道堅居士右近大夫方通(城主としては質素な駒形石碑)

(二代) その子主計知通、家督を継ぎ、後隠居し、特に隠居料千石を賜った。
明暦三年(1658)8月卒。大仙寺に葬る。墓碑・鐡心道要居士主計智通

(三代) その子右近正通、家督を継ぐ。明暦三年八月卒し、大仙寺に葬る。
墓碑・鐡曳隆元居士右近正通

(四代) その子右近良通、父の遺領を継ぎ、延宝二年二月卒し、大仙寺に葬る。
墓碑・鐡龍春輪居士右近良通

(五代) 良通子無き為、幕府は命じて外孫、右平次屋通を嗣とし、旧邑を賜った。
延宝四年三月卒し、名古屋禅流寺に葬った。
子がなかったので家は断絶し、領邑は尾州藩に帰属した。】と記載されている。

◆大仙寺は山麓に建ち、入口に建つ江戸時代建立の惣門は、どっしりしている。


◆惣門の先は、緩い石段の参道になっている。参道の左側には、石仏が並んでいる。


◆石段の参道は突き当たると、右に進む。石垣と白壁が美しい。


◆次は、やや小さい山門を潜る。


◆山門を潜り左に進むと、立派な庫裏があり、その先が本堂前である。合掌。


◆本堂の左奥に墓地への入口がある。


◆本堂の後方の斜面が墓地になっており、階段を上る。


◆階段の突き当りを右に進む。


◆T字路を左に上がると、稲葉家の墓碑が並ぶ。稲葉家下段の墓所である。合掌。


◆一番手前(右端)が、初代稲葉方通公(鐡巌道堅居士)の墓碑である。


◆3代正通公(鐡叟隆元居士)の墓碑は、左から2番目である。


◆稲葉家下段墓所の右端を右に進む。


◆そして、階段を上った所が、稲葉家上段の墓所である。合掌。
右端が、2代知通公(鐡心道要居士)の墓碑である。


◆右から3基目(写真の右側)が、4代良通公(鐡龍春輪居士)の墓碑である。


★豊後高田初代藩主「松平重直夫妻」の墓所については「八百津町史」によると、
【墓碑(五輪塔):※東照院前丹州太守大心道鉄大居士(寛永十九年十一月)

墓地の丹後堂と称する所に大きな五輪塔が二基祀ってあるが、
この墓は九州臼杵の城主松平丹後守と申す領主が、非常に国師に帰依し遂に大仙寺で亡くなり、
後日城主の妻も遺骨が此処に葬られたと伝えられている。

国師に帰依した動機は,或年丹後守が参勤交代で江戸に登られ太田の渡しを越そうとした時、
国師も通り合わせ、その船に飛び乗られた所、家来共は無礼者として国師を船より下ろしてしまった。
国師はこの船は川の真中より進まないと仰せられたが、その通り船は動かなかった。

城主を始め家来の者共は、非常に驚き不思議に思ったが、どうすることもできない。
そこで国師の法力の偉大さに恐れ、国師を再び乗せたら船は楽々超すことが出来た。

城主は国師の偉大なる僧侶であることを知り深く帰依し、
遂に国師の手厚い看護を受けて死去されたとのことである。

※松平重直(寛永十九年十一月28日没、恵照院大心道徹)
(杵築藩能見松平家の松平重忠の娘婿)出羽上山藩主、摂津三田藩主、豊前龍王藩主、豊後高田藩主】
と記載されている。

◆「松平重直公夫妻」の墓所の参道は、本堂下の右方にある第二駐車場前にある。


◆斜面にある墓地の間の長い階段を上る。



◆上り切ると、左奥に立派な五輪塔が二基見えてくる。




◆左側が松平重直公、右側が夫人の墓碑である。
3m以上あろうかという巨大な五輪塔で、近くで見ると圧倒される。合掌。


★稲葉家墓所も松平夫妻墓所も、案内板は一切なく残念だった。手探りで墓碑を探した。
しかし、墓所も含め境内全体がきれいに清掃されており、良いお寺だった。

◆「稲葉家墓所」配置図を作成したので、参考になれば幸いである。


以上  


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2018年03月10日

岐阜市<瑞龍寺>「美濃国守護・土岐成頼公」「守護代・斎藤妙椿公」墓所 (武将のお墓参り33)

2018.3.10(土)
美濃国ゆかりの武将のお墓参り

★瑞龍寺★ 岐阜市寺町19
美濃国守護「土岐成頼公」と守護代「斎藤妙椿公」の墓所

◆瑞龍寺は、雲水の修行道場であり、通常は非公開である。
しかし、毎年3月に開催される「ぎふ梅まつり」に合わせて、2日間のみ一般公開される。

◆梅林公園へ続く殿町本通りに「金寶山瑞龍寺」の標柱が立ち、参道には松が植えてある。
◆山門の先が境内になっており、突き当りの本堂まで美しい松並木がつづき、両脇に塔頭が並ぶ。



◆突き当りの本堂には、「ぎふ梅まつり実行委員会」の方たちがいて、
「瑞龍寺拝観」のチラシをいただけた。


◆土岐氏家紋の「桔梗紋」が、屋根瓦や本堂内の釘隠しなどにも使われていた。


◆本堂前には梅の古木があり、赤い花を咲かせていた。


◆本堂に参拝、合掌。
ご本尊の両脇の間には、日展理事「土屋禮一画伯」作の障壁画「蒼龍」と「瑞龍」があり、必見だ。

◆さて、美濃国守護「土岐成頼」公と守護代「斎藤妙椿」公の墓所の公開は、
瑞龍寺一般公開と同日であり、年に2日間のみである。

◆本堂前の左側に高い生垣があり、立札「県指定史跡 土岐成頼の墓・斎藤妙椿の墓」がある。



◆カーブした道を進むと、広場(駐車場)に入る。
◆広場の左にたくさんの石造観音像などがあり、その右側に墓所への入口がある。


◆小さな門を潜り、木立の中の石段を上る。上った先が墓所だ。



◆墓所に看板があり、次にように記されている。
「岐阜県指定史跡 土岐成頼 斎藤妙椿墓 
土岐成頼は康生二年(一四五六)一五歳で、美濃国守護土岐持益の養子となり、
左京太夫美濃守となった。

応仁の乱では山名氏に従い、始終京都にあって西軍の有力武将として一一年間転戦した。
文明九年(一四七七)和平成立後、足利義視、義稙父子をともなって帰国した。
明応六年(一四九七)五六歳で病没し、ここに葬られた。 

斎藤妙椿は土岐家の守護代で、主君成頼が京都で転戦している間在国し支配権を確立し、
さらに近江、越前など近国にも勢力を拡大していった。

他方、歌人でもあった妙椿は文化人の保護者でもあり、美濃で連歌が華やかに行われた時代を築いた。
応仁元年(一四六七)頃、主君成頼のために瑞龍寺を建立した。
妙椿は文明一二年(一四八0)七十歳にて没しここに葬られた。」

◆墓所の左端が「土岐成頼公」墓所。四角く石柱で囲まれた中に、自然石の小さな墓碑があった。合掌。



◆左から2番目が、「斎藤妙椿公」墓所。同じく石柱で囲まれた中に、墓碑がある。合掌。



◆塔頭のひとつに「斎藤妙椿公」画像があるが、拝観ができず残念だ。

以上  


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2018年02月15日

<東京都>加納藩主永井家墓所「本行寺」&「功運寺」 (武将のお墓参り 33)

<美濃国ゆかりの部将のお墓参り>
今回は、美濃加納藩(岐阜市の加納城)の藩主であった永井家だ。

加納藩のはじめは、徳川家康公の娘婿・奥平信昌公であったが、
最後の藩主は永井氏であった。

東京には、多くの大名墓地がある。
加納町史などで調べたところ、永井家墓所は「本行寺」と「功運寺」とあった。

★「本行寺(ほんぎょうじ)」 東京都荒川区西日暮里3-1-3
◆加納町史には、「加納藩主永井尚佐(ナオスケ)公、尚典(ナオノリ)公、尚服(ナオコト)公は、
谷中本行寺に葬られた。」と記されており、墓参のため本行寺を訪ねた。

◆寺は、JR日暮里駅の北西、谷中銀座(夕焼けだんだん)の手前にある。
別名「月見寺」と称する。


◆山門を潜ると、正面に本堂がある。本堂前で合掌。 


◆本堂左手に墓地への参道があり、奥へ進む。


◆本堂の裏手が墓地になっている。
境内に加納藩主永井家の墓碑の案内はない。感で東方(右手)への通路を進む。


◆東方への通路は、突き当って左に折れるが、その角付近に永井家の墓碑が2基あった。合掌。


◆左側が、加納藩最後の藩主「永井尚服(ナオコト)公夫妻」の墓碑だ。
「尚服」の文字も刻んであって、一目でわかった。


◆右側が笠付で、「永井家合葬之墓」と刻まれている。
墓碑の横側に大勢の夫人や子供の名が刻んである。


◆永井尚佐公、尚典公の墓碑は、境内をくまなく探し回ったが、
みつけることが出来なかった。残念!

◆墓地左奥の角には、幕末に幕府官僚として活躍した「永井尚志(なおゆき)公」の墓碑がある。合掌。
こちらは墓碑の背後に案内板もある。

★「功運寺」 東京都中野区上高田4-14-1
◆加納町史には、「加納藩主永井直陳(ナオノブ)公、尚備(ナオミツ)公、尚旧(ナオヒサ)公は、
功運寺に葬られた。」と記されており、墓参のため功運寺を訪ねた。

◆新宿駅西口のバスターミナルでバスに乗り、「正見寺」バス停で下車、
北へ坂を上ること5分くらいで功運寺に到着。

◆門前に2つの案内板がある。「吉良家の墓所」と
「菩提所 吉良上野介義央、水野重郎左衛門、歌川豊国、林芙美子、他」である。

◆お寺は、「まこと幼稚園」を併設しており、ちょうどお迎えの時間であった。
山門前にガードマンがいる。


◆ガードマンの目的を説明したところ、「入るには記帳が必要。境内は撮影禁止。
墓といえども撮影は、お寺の人の許可が必要。園児を写さないこと。」と説明を受けた。

◆客殿でお寺の方に声を掛け、目的を説明し、撮影許可を得た。
ただし、永井家の墓はあるが、加納藩主の墓がどこにあるか不明とのこと。

◆本堂裏の墓地に入ると、墓碑の案内板があった。「①永井家歴代墓」も記してあった。


◆墓地の中央付近に東屋があり、その横に「永井家歴代墓」の標識があった。


◆その先に3m近い巨大な宝篋印塔がある。
そこには、「龍谷院殿」と刻まれ、後で調べたところ当寺を開基された丹後宮津藩主
「永井尚征(なおゆき)公」の墓碑であった。合掌。


◆周りにも立派な墓碑があったが、加納藩主である永井氏の墓碑は見つけられなかった。残念!

◆吉良家(右から義央公・祖父義弥公・義弥父義定公・父義冬公)や
今川家の墓所には、標識があった。どちらも立派な宝篋印塔だ。合掌。



◆標識はなかったが、墓碑に刻まれた文字を控えて、後で調べたところ、
永井直陳公の父である武蔵岩槻藩初代藩主「永井直敬(なおひろ)公(正功院殿)」の墓碑であった。
墓地の中央通路を突き当たった左側にひっそりと立っていた。合掌。
(右側の宝篋印塔が永井直敬公」墓碑)


◆横浜市戸塚区旗本・従五位下大江姓「永井監物白元公(永元院殿)」の墓碑も同様に判明した。合掌。
(右側の大きな無縫塔が永井監物白元公の墓碑)


以上  


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2017年12月08日

福井県越前町<剱神社> 織田信長公ゆかりの地

<織田信長公ゆかりの地> 2017年11月
織田信長公ゆかりの地である「越前町織田」を訪ねた。ここでは、「織田」を「おた」と読む。
①剱神社
②織田文化歴史館
③織田信長像

★★「剱神社」 福井県越前町織田113-1


◆広い境内の入口は3ヶ所、南側・東側・北側にあるが、赤い鳥居があるのは南側だ。
赤い木造の鳥居には、青い額が掛かる。美しい鳥居だ。
鳥居のはるか先に拝殿が見え、その奥に本殿がある。


◆拝殿に向かう途中、右側には立派で趣のある社務所が建つ。


◆境内に案内板「剱神社由緒略記」があり、次のように記されている。
『剱神社由緒略記
御祭神 素戔嗚大神(すさのおのおおかみ)、氣比大神(けひのおおかみ)、忍熊王(おしくまのみこ)

社伝によれば、座ケ岳の峰に祀られていた素戔嗚大神の御神霊を 
第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王がこの地に斎き祀られたと伝えている。

即ち、神功皇后摂政の頃、忍熊王が当地方の賊徒討伐にあたり、素戔嗚大神の御神助を戴き、
無事平定できたことに対し、神恩報謝のため織田のこの地に社を営み剱大神と称え、
その後、王が薨去されるや里人はその徳を慕い、主神素戔嗚大神に配し祀った。

奈良時代には祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から篤い信仰を受け、
殊に所蔵する国宝の神鐘は第四十九代光仁天皇が白壁王と申されていた頃、
弓削道鏡の野望を砕くために当社に大願が掛けられ、成就の御礼として御奉納戴いたといわれている。

また、武門にあっては平重盛をはじめ、朝倉・織田・徳川・松平の諸将の尊崇が篤く、
特に織田信長は氏神として崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護した。

江戸時代の末には伏見宮の御祈願所に定められ、拝殿は伏見宮の御勧進によって造営された建物で、
明治三十四年には県社に、昭和三年には国弊小社に昇格した。』

◆拝殿に向かう途中、左側に石碑「戦国武将 織田一族家発祥地」が建つ。


その石碑の裏には、次のように刻まれている。
『剱神社と織田一族
日本一の大武将信長公を始めとする織田一族の発祥の地は、織田の地であることは広く世に知られている。
先祖は剱神社に代々奉仕の神官忌部氏である。

室町時代の越前の守護大名は斯波氏である。この斯波氏と織田氏とが主従の関係にあり、
応永七年(一四00)時の守護大名斯波義重が尾張の守護を兼任することになり、家臣の織田氏も尾張に赴き、
後 守護代として斯波氏に代わって統治する。

応仁元年(一四六七)に応仁の乱が起り、戦国乱世へと突入する。
織田氏も次第に勢力を伸ばし、ついに尾張の大名となる。

戦乱の真只中に一人の傑出した武将が出現する。
天下布武を標榜し、乱世の平定に立上がり、天下統一を成しとげんとした織田信長である。
新時代を創成し、近代日本の基礎を築いた人である。

又、剱神社に対する崇敬心は篤く、織田の地を出て百七十有余年、
尚一族の氏神と崇め、社領を安堵し、保護している。

又、一族の中で特筆すべきは、津田近江守正路なる人である。
幕末、鎖国か開国かで国論が二分する動乱の中、箱館奉行の職で外国奉行を兼務し、
開国派として積極的に開国を推進し、明治の御代、日本が大躍進をとげる道を開いた一人である。

津田家は信長公の祖父信定公の兄、織田秀敏公(津田玄蕃●)を始めとし、代々津田姓を名乗る。
徳川時代旗本三千有余石の禄高をうけ、●●の要職の外、勘定奉行、大目付を務めた家柄である。

昭和五十九年は信長公が 備後守信秀公の嫡男として生まれて四百五十年に当り、
之を記念し、織田一族の偉業、遺徳を称え、由縁深い剱神社境内の一角に 
戦国武将 織田一族発祥地の石碑を建立し、深いつながりを永久に伝えるものである。

昭和五十九年十月吉日 剱神社宮司 ●●●●●
石碑建立寄進 津田近江守直系子孫 東京都中野区 津田●●』

◆立派な拝殿は杉林の中に厳かに建っている。


◆拝殿の屋根は、入母屋造りと唐破風の複合型で美しい。


◆本殿も立派で、美しい建物だ。


案内板があり、次のように記されている。
『剱神社本殿 県指定文化財

剱神社本殿は、長寛二年(一一六四)頃に建立されたといわれ、
その後、焼失、一部解体修理、屋根の葺替えを重ねてきた。

現在の本殿は、寛永四年(一六二七)に再々建されたものである。
この本殿は、高さ一メートルほどの基壇の上に建てられ、亀腹は青色切石を使っている。

屋根は入母屋造り、杮葺きで、千鳥破風が主棟と同じ高さで前方に突出し、
さらにその直下に唐破風を持つ向拝が設けられている。

千鳥破風や唐破風をもつ屋根は、「織田造り」と称され、江戸時代初期の秀麗な姿をとどめている。』

◆「小松建勲神社」の小社が、拝殿前の右側に建つ。(右側)


脇にある案内板に次のように記されている。
『小松建勲神社由緒 御祭神 平重盛公、織田信長公

平重盛公は小松殿と申し、忠義の至誠に厚い武将であります。
焼失した剱神社の社殿の復興を行うと共に、広大な領地を寄進し、深く信仰致しました。
後世里人は公の徳を称え、小松殿として神霊をお祀りしました。

織田信長公は先祖が剱神社の神官であり、その子孫であることを自覚し当社を手厚く保護し、
田地凡そ千四百九十石を寄進して領民を安堵しております。

柴田勝家が当社に差し出した諸役免除状という文書に「当社の儀は、殿様の御氏神の儀に候えば、
いささかも相違あるべからずの状・・・」と記されております。氏神様として信仰したことを知ることが出来ます。

今日多くの人達が信長公の功績を賛仰し、御加護を預かんと全国から参拝に訪れる人が多くなりました。』

★★「織田文化歴史館」
◆剱神社の北隣りに「織田文化歴史館」があり、昔の社殿などの配置が判る模型が展示されている。
今でも広いが、昔はさらに広大な境内で、三重塔のある神宮寺「劔御子寺(織田寺)」も建っていたことが判る。


訪れた時には、企画展「異人探求 泰澄十一の疑問展」を開催中で、織田氏についての展示はわずかでがっかり。

★★「織田信長像」
◆剱神社の東方、T字路の西北角に「織田信長像」が建っている。


信長公は、高い台座の上で、威風堂々としたお姿だ。高名な彫刻家「北村西望氏」作である。


以上  


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2017年11月24日

岐阜県山県市<南泉寺> 「美濃国守護第十代 土岐頼純公の墓所」 (武将のお墓参り32)

<美濃国ゆかりの武将> 2017年11月

★南泉寺 岐阜県山県市大桑2358-2 (美濃国守護第十代 土岐頼純公の墓所) 境内自由


◆南泉寺の略歴
永正14年(1517)美濃国守護第九代「土岐政房公」が仁軸宗寿和尚を招いて、
土岐氏の菩提寺として開山された。

天文20年(1551)には土岐氏一族出身の快川紹喜和尚が住職となり、
禅宗寺院の中心として栄えた。

江戸時代には大愚和尚が春日局の葬儀・導師を勤め、
将軍より朱印状を得るなど重きをなしていた。

◆寺は南向きで、境内入口の右側に寺宝の案内板がある。
「土岐頼純公の肖像画」や土岐鷹の絵などの寺宝が記されている。


◆参道を進むと、どっしりとした総門がある。両脇に少し離れて筋塀がある。


◆総門の先に山門がある。境内には南天が植えられ、ちょうど赤い実がきれいだった。


◆山門を潜ると本堂がある。本堂右手の庫裏で女性に参拝を請い、本堂で参拝。


庫裏の土間には「七福神」の立派な彫刻があり、必見だ。しかし、寺宝は拝見できなかった。


◆本堂左手を奥に進むと、「南泉寺霊園」に突き当たる。
霊園の最上段(山腹)、大きな木が1本立っているところが、土岐氏一族の墓所である。



◆そこへ行くには、まず霊園の右端の舗装された小道を左に進む。
すると、すぐに山裾の竹林が脇に見える。


◆山裾の道は左に曲がり、坂道を上ると舗装がなくなる。
分かれ道があるが、左の道へ進む。


◆この崖沿いに進むと、右手に階段がある。


◆階段を上っていくと「仁軸和尚」の石碑があり、さらに上った所が土岐氏一族の墓所である。合掌


◆土岐氏一族墓所に入ってすぐ左手には、たくさんの五輪塔が並んでいる。


◆さらに上が「美濃国守護第十代 土岐頼純公」の墓所である。


木造廟の中に五輪塔の墓碑がある。


その左隣に小さな石造廟があり五輪塔が中にある。お寺の方に尋ねるも墓主名は不明であった。

◆土岐氏一族墓所に大きな五輪塔がある。


◆五輪塔の四隅に文字が刻まれている。
東は「美濃国守護職 土岐家累代総供養塔」と刻まれ、他の面に歴代守護名が刻まれている。


◆南は「初代定林寺殿 頼貞公、二代(判読不可) 頼遠公、三代建徳寺殿 頼康公、
四代法善寺殿 頼行公」と刻まれている。


◆西は「五代禅蔵寺殿 頼忠公、六代興善院殿 頼益公、七代承国寺殿 持益公、
八代瑞竜寺殿 成頼公」と刻まれている。


◆北は「九代承隆寺殿 政房公、十代南泉寺殿 頼純公、十一代東春院殿 頼芸公」と刻まれている。 


◆寺や墓所には、土岐氏についての案内が何もなく、残念だった。

以上  


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2017年11月17日

岐阜県山県市<慈明院> 「永井氏墓所」 (武将のお墓参り31)

<美濃国ゆかりの武将> 2017年11月
★慈明院 永井氏墓所
岐阜県山県市西深瀬1722-1


◆「高富町史」によると、
『慈明院は、貞治2年(1363)永井定信公が創建。
永井氏の菩提寺で、永井氏の宝篋印塔・五輪塔十余基を数える。
一族の氏神として乙御前神社を永正10年(1513)に勧請。

永井氏は、斎藤氏の支族として小守護代の地位にあった長井氏の一族で、
守護土岐氏の被官(部将)として随身した。』

◆寺は山麓にある。境内入口は西側にある。


◆階段を上がった所に本堂がある。(旧本堂等は明治24年の濃尾大震災で倒壊したそうだ。)


◆ご住職不在だったが、ご夫人に本堂などを案内していただいた。
珍しい観音様などの仏像の由来や「おもかるさん」などのお話を聞くことができた。


◆「おもかるさん」は、石を一度持ち上げて下ろし、願いをかけてから、
もう一度持ち上げる。前より軽く感じたら願いが叶うといわれる。
「おもかる石」を持ち上げてみた。前より気持ち軽く感じた。願いが叶うと良いな。


◆永井氏墓所への参道は、本堂の右手にある。


◆山道を上っていくと石垣が見えてくる。


◆道は石垣の先に続く。


◆中腹の山際に墓地がある。
永井氏一族の墓碑群は、左側全部と右側最後列だそうだ。合掌
なお、墓碑主名は不明。


◆左側の2列目は、やや大きめの美しい宝篋印塔が並ぶ。


◆左側の3列目は、小さめの五輪塔や宝篋印塔がたくさん並ぶ。


その中ほどに双体石仏もある。


◆右側の3列目は、様々な形の墓碑が並ぶ。


◆ご夫人には、寺の行事である節分や落語会についても案内していただいた。
落語会は破格の五百円だそうだ。

◆大変楽しい時間を過ごさせていただいた。
丁寧にご案内いただいたことと、この出会いに感謝。
息子さんが歴史好きだそうで、機会があればお話を伺いたいものだ。

以上  


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2017年11月16日

岐阜県本巣市<照空寺> 「旗本文殊戸田氏歴代墓所」 (武将のお墓参り30)

<美濃国ゆかりの武将> 2017年11月
★照空寺 旗本文殊戸田氏歴代墓所
 岐阜県本巣市大字文殊1197


◆加納藩主松平光永公は、父光重公の遺領7万石のうち1万石を
弟の孫十郎光澄(のち光正)公と孫七郎光直公に五千石ずつ分け与えた。
これが、旗本文殊戸田氏と旗本北方戸田氏の始めである。

◆照空寺は、応永二十八年(1421)寺井氏により長福寺として建立された。
その後、元禄二年(1689)旗本(文殊)戸田光正公が、
母・照空院の菩提所として今の地に移し、照空寺と改称した。

◆通りから細い道を入っていくと、突き当りが寺の石階段になっている。(山の麓に寺がある。)
階段の両脇には、椿が植えてある。
そして、左脇に石碑「史蹟 徳川幕府旗本戸田氏菩提寺」がある。


◆階段を上ると、美しい唐破風の山門がある。

門には、ウサギや龍、力士の素敵な彫刻がある。いいね。


◆山門の先に本堂があり、外から参拝。


◆山門を潜ってすぐ左が、墓所への参道になる。(木々の下で、少しわかりづらい)


◆墓所は、山の中腹にある。森の中の坂道を上って行く。石の階段だ。


◆途中の階段両脇に、古い墓碑が配置されている。

上の方は少し急だ。


◆階段を上り、最上段が「旗本戸田氏歴代墓所」だ。
正面の上段に、墓碑が6基並んでいる。合掌 
右から順に「照空院殿」「四代光典公」「初代光正公」「二代光輝公」「二代光輝公」「勇心院殿」。



◆右から3番目の「初代戸田光正公」の墓碑が一番大きい 


◆光正公の母「照空院殿」の墓碑 


◆「二代戸田光輝公」の墓碑


◆「三代戸田光政公」の墓碑 


◆「四代戸田光典公」墓碑


◆初代はじめ6基の墓碑がある区画を右の奥へ進むと、
上段に4基の墓碑が並んでいる。合掌 
右から順に「八代光幽公」「五代光智公」「六代光陽公」「十代光利公」だ。


◆右「八代戸田光幽(こうひん)公」、左「五代戸田光智(みつとし)公」の墓碑 


◆右「六代戸田光陽(みつはる)公」、左「十代戸田光利公」の墓碑


◆「大野町史」に歴代のお名前・法名・没年が記載されており、
墓碑と照らし合わせることができた。感謝

なお、九代光田(みつつら)公・十一代光顕(みつかげ)公は神葬のため照空寺に墓はなく、
七代順次郎公の墓はないそうだ。

寺に案内板がなく、残念だった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:07Comments(0)武将のお墓参り

2017年11月09日

岐阜県可児市<天龍寺> 「明智氏歴代之墓所」と「明智光秀公ご位牌」 (武将のお墓参り29)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>2017年11月
★★天龍寺  「明智氏歴代之墓所」と「明智光秀公ご位牌」
岐阜県可児市瀬田1242


◆近くの山には、明智氏が築城し、斎藤義龍公により落城したと伝わる明智城(明智長山城)跡がある。
長山明智氏の祖は、美濃国守護初代「土岐頼貞公」の孫「土岐頼兼公」(父頼清公)と伝わる。
そして、明智光秀公は、頼兼公の子孫と伝わる。

◆境内入口の左側に案内板が立つ。


案内板には、次のように記されている。
『天龍寺 山号 青雲山

天龍寺は永平寺を本山とする曹洞宗のお寺で、「聖観世音菩薩」をご本尊としています。
このお寺は寛永2年(1625)武儀郡下有知村(現関市)龍泰寺の末寺として
同寺20世鰲山正雪禅師を招請して開山した由緒あるお寺です。

大正12年3月の焼失以前は、本堂、開山堂、明王堂、鐘楼門などを有する堂々とした
一大伽藍のお寺でした。本堂は昭和45年10月に落慶、その後庫裏、山門、開山堂などを
再建し現在に至っており、可児新四国36番札所ともなっています。

また、明智一族の菩提寺として毎年光秀公の法要が営まれており、
本堂には日本一といわれる大きな光秀公の位牌が祀られています。
境内の東北部には、日本では3つしかないという北向地蔵がみられます。以下略』

◆右側にも案内板があり、次のように記してある。
『●日本一大きな明智光秀公の位牌 六尺一寸三分(184cm)をお祀りしております
●明智一族のお墓があります  ●瀬田おたすけ観音  写経・納経ができます』

石柱もあり、「明智光秀公縁寺 瀬田 天龍寺」と刻まれている。

◆境内に入り、突き当りにある鐘楼の右側が参拝者駐車場である。
駐車場の南側に「明智氏歴代墓所」がある。しかし、本堂にお参りしてからの参拝とする。

◆山門を潜る。


◆山門先の正面に本堂がある。


◆本堂前には、普賢菩薩と文殊菩薩の石像がある。この位置の菩薩像は珍しい。
(左後方に見えるのは、「瀬田おたすけ観音」)


◆庫裏でチャイムを鳴らすと、ご夫人が出てきて、快く本堂内を案内していただけた。(感謝)
ご本尊と、ご本尊前の普賢菩薩像と文殊菩薩像に合掌。

◆本堂に入って左手に「子育て観音像」が祀られている。
かわいい赤ちゃんを抱いた観音様である。


◆ご本尊の左方に明智光秀公のご位牌がある。大きくて新しい。
サイズは、命日6月13日にちなみ六尺一寸三分だそうだ。合掌。


◆ご位牌の右隣には、光秀公の木造坐像がちょこんと座っている。合掌。
地元の彫刻家樋口文雄氏の作品だそうだ。
ご本尊前の普賢菩薩像と文殊菩薩像、子育て観音像も樋口氏の作品で、優しい仏様たちである。


◆紅葉の樹の下に明智氏歴代墓所がある。


墓碑群の右前に石柱「明智氏歴代之墓所」が立つ。合掌
裏山に散在していた墓石や石仏などを集めて整備したもので、
明智氏のどなたの墓碑かはわからないそうだ。


◆お寺の方の明るく快活なご案内のお陰で、心地よい時間を過ごさせていただいた。
ありがとうございました。

以上  


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2017年10月28日

岐阜県大野町<月真寺> 「旗本加藤平内の墓所」&「竹中重元公(竹中半兵衛公の父)の墓所」 (武将のお墓参り28)

<美濃国の武将のお墓参り> 2017年10月
★★「月真寺」 
岐阜県揖斐郡大野町大字公郷1812-1、境内自由

◆寺の入口は東側にある。


◆境内に入りまっすぐ進むと、門の跡らしきところの左右に標柱がある。
右側は「大野町史跡 加藤平内墓」、左側は「大野町史跡 竹中重元の墓及び五輪塔」と記してある。


◆さらに進み、鐘楼の前を過ぎると突き当たり、道は右に折れる。
その先が庫裏や本堂となる。本堂前にて参拝。


◆本堂の左端を右に折れると、突き当りが墓地である。


◆墓地はこじんまりしており、墓碑の間に通路が設けてある。


★墓地の少し奥まったところに、「旗本加藤氏の歴代墓碑」が10基並ぶ。
他の墓碑に比べて一段高く、大きく立派で、一目でそれとわかる。合掌


墓碑はコの字形に並んでおり、立札「大野町史跡 加藤平内の墓」が立っている。
墓碑についての説明はない。

そのため、墓主名は「池田町史」に記載の歴代当主の没年と墓碑に刻まれた没年から推定した。
ただし、左手前の1基だけは「加藤平内藤原挙直」と刻まれており、九代挙直公と判明。

◆正面に5基。左から順に、二代光定公、三代泰和(やすまさ)公、四代納泰(のりやす)公、
五代泰亨(やすとき)公、不明(香雲院殿、宝暦11年没)。


◆右側に4基。左から順に、不明(甲斐守、暁嶽院殿、文化元年没)、七代泰伊(やすただ)公、
八代泰威(やすたけ)公、孝源院殿・友直公。


◆旗本加藤氏であるが、初代「加藤平内光直公」は、加藤光泰公の三男。兄は加藤貞泰公。
光直公は、秀吉公、家康公に仕え、関ケ原合戦後に美濃国池田・安八・不破郡のうちで
3640石を与えられ、揖斐郡池田町に「六ノ井陣屋」を設けた。十代泰壮公の時に明治維新を迎えた。

◆参考だが、「池田町史」には、初代光直公はじめ歴代墓所は、
江戸神田(現・台東区浅草)「海禅寺」と記載がある。

また、初代光直公から十代泰壮公までのうち、六代泰朝公(駿河守)と七代泰伊公(右京)以外は
「平内」と記載がある。

★軍師竹中半兵衛公の父・竹中重元公の墓碑は、旗本加藤氏歴代墓碑の北奥に位置する。
この写真では、左列の最奥。


◆墓碑の前に立札「大野町史跡 竹中重元の墓」が立っている。合掌
小ぶりで周りに並ぶ墓碑と大きさは変わらず、立札がなければわからない。


◆境内の外、西側の道路沿いに案内板があり、次のように記されていた。

『大御堂城跡 竹中重元の墓 加藤平内の墓 由緒
大御堂城跡 ここ月真寺の西一帯は、秀吉旗本の天才軍師竹中半兵衛重治が生まれた大御堂城跡と
伝えられています。江戸時代に公郷を治めた旗本加藤平内から月真寺に寄進されました。

以前は堀や土塁が残り、城の遺構とされていましたが、現在では土地の改変により
当時の面影を見ることはできません。

竹中重元の墓 竹中半兵衛の父竹中遠江守重元の墓が月真寺本堂西の墓所にあります。
重元は、明応6年(1497)に大御堂城で誕生し、永禄元年(1558)に岩手城を攻め、
その後永禄4年(1561)に病死したと伝えられています。

加藤平内の墓 月真寺は、池田町六之井に陣屋をかまえた旗本加藤平内の菩提寺です。
加藤家は初代光直から最後の領主泰荘まで11代続きました。

ここには加藤家代々の墓所があります。月真寺の山門は、もと六之井陣屋の門でしたが、
明治3年(1870)旧領主より寄進を受けて移築されたものです。  大野町教育委員会』

◆訪問時には、案内板に記してある山門は見当たらなかった。
また、加藤家代々の墓所があると記してあるが、初代光直公はじめ一部の領主の墓碑は判明しなかった。
少し残念だった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:55Comments(0)武将のお墓参り

2017年10月28日

岐阜県大垣市<円通寺> 「大垣藩主戸田家廟所」 (武将のお墓参り27)

<美濃国の武将のお墓参り> 2017年10月
★大垣藩主戸田家廟所 円通寺
 岐阜県大垣市西外側町1-32-1、境内自由


◆大垣藩初代藩主である戸田氏鉄公は、家康公に仕え、父一西公の死後、家督を継ぎ近江膳所藩主となる。
大坂の陣の後に摂津尼崎藩主を経て美濃大垣藩主となった。

◆寺の入口は東側にあり、境内に入ってすぐ右端に石柱「史蹟戸田家廟所」と案内板が立つ。


案内板には、次のように記してある。
『岐阜県指定史跡 戸田家廟所
大垣藩十万石の歴代藩主が眠る戸田家廟所は、寛永12年(1635)初代藩主戸田氏鉄公が尼崎から
大垣へ国替えになった際、同時に戸田家菩提寺の円通寺を移したことに始まる。

先の戦災で大きな被害を受けたが、昭和38年(1963)市制45周年を期に墓の復旧をはかると共に
東京の蓮光寺にあった9代氏正公・11代氏共公の墓も移すことになり、
翌年4月戸田家11代歴代藩主の墓が揃い完成した。』

◆境内に入ると真っすぐ石畳の参道が延び、奥には山門が建つ。
唐破風の美しい姿の山門である。どっしりとした瓦屋根もいい感じ。


山門前に案内板があり、次のように記してある。
『円通寺山門
円通寺山門は、寛永12年(1635)初代藩主戸田氏鉄公が尼崎から大垣へ国替えになった際、

同時に菩提寺である本寺の伽藍を移し、現在地に建立したものである。
以来、雷火のため数回焼失したが、現在の木造本瓦葺の山門は、天保年間(1830~44)に再建され、
大垣藩十万石歴代藩主の菩提寺の山門にふさわしい豪壮な姿を今に伝えている。』

◆山門を潜り、突き当りが本堂である。参拝。


◆本堂の左前に立札「大垣藩主戸田家廟所➡」があり、その先が墓地入口である。


◆墓地に入るとすぐ通路は右に折れ,突き当り奥が戸田家廟所である。


◆廟所入口。廟所は、白壁の土塀で囲われており、特別感がする。


◆廟所入口の右前に石碑があり、次のように刻まれている。
『史蹟 戸田家廟所の沿革
此の廟域は旧大垣藩主戸田家が尼崎から大垣に移封されてより三百三十余年の廟所であって
岐阜県並びに大垣市の史蹟に指定されて居ります

昭和二十年七月の空襲にて市の大半が焦土と化した際 不幸この廟所も焼失し
初代氏鉄公二代氏信公七代氏教公の墓石を残し その他は四散崩壊しました。

今や市制四十五周年に際し各方面ともその復興を加えつつある現状であり
よって東京にある九代氏正公11代氏共公の分骨を乞い これを合祀致し
ここに完成致しましたのでその沿革を記します

昭和三十九年四月 戸田家廟所復旧委員会会長●●●● 誌 』 

◆廟所の門扉の右側には、戸田家家紋が付いている。
門扉は開かれており、廟所内に入れた。
廟所内は、歴代藩主や家族の墓碑や石灯籠が整然と立ち並んている。合掌
墓碑間の通路は石畳となっている。


◆藩主の墓碑は全て五輪塔である。
各墓碑には立札があり、墓主の法名・名前・生没年が記されていて大変うれしい。

◆正面奥に二基あり、右が初代氏鉄(うじかね)公の墓碑である。


◆二代氏信公の墓碑


◆右奥が三代氏西(うじあき)公、左手前が六代氏英(うじひで)公の墓碑


◆四代氏定公の墓碑


◆五代氏長公の墓碑


◆七代氏教(うじのり)公の墓碑


◆八代氏庸(うじつね)公の墓碑


◆九代氏正公の墓碑



◆十代氏彬(うじあきら)公の墓碑


◆十一代氏共(うじたか)公の墓碑


◆戦争により多くの墓碑が失われたため、作り直された新しい墓碑が目立つ。
しかし、きれいに整備され、立ち並ぶ墓碑群は壮観で、素晴らしい大名の廟所であった。

以上
  


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2017年10月17日

岐阜県中津川市「中津川市苗木遠山史料館」&「苗木遠山家廟所」 (武将のお墓参り26)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017.10訪問
「中津川市苗木遠山史料館」と「苗木遠山家廟所」

★★中津川市苗木遠山史料館
岐阜県中津川市苗木2897-2、月曜休館(月曜日が祝日の場日は翌日)、9:30~17:00

◆史料館は、苗木城の麓に建っている。雲林寺の塔頭があったところだそうだ。
中世、戦国時代から明治時代初期に至る苗木遠山家の資料を中心に展示している。
苗木城跡の探訪前や、苗木藩の歴史を知るには、ぜひ訪れたいところだ。

◆入館すると、チラシ「苗木遠山史料館」と「苗木城跡(6タイプの石垣探索などを記載)」をいただける。
展示品の中でも苗木城模型は、立体的で城の造りがよくわかる秀作である。
写真撮影可なのもうれしい。(展示の一部は写真撮影可)


◆展示室に、「苗木城見取図」「中世・近世の苗木領主(領主名一覧)」
「激動期の苗木(苗木藩の幕末、廃仏毀釈)」の持ち帰り用資料が置いてあるのもうれしい。
パンフレット「国指定史跡苗木城跡」「中津川観光ガイドマップ」なども置いてある。

◆2階への階段の壁には、歴代苗木藩主の肖像画の写真が展示してある。
写実的で藩主の個性ある姿を知ろことができる。

◆2階では、「特別展 ふるさと中津川の先人 前田青邨」展(2017年10月7日~11月5日)が
開催されており、青邨画伯の日本画や天井絵、「皇居・石橋の間」の下絵などを鑑賞できた。

◆入り口付近に、苗木藩などについて書かれた書籍・資料も多数揃えてある。
時間があればゆっくり読みたかった。

★★苗木遠山家廟所(雲林寺跡)
岐阜県中津川市苗木2875、苗木遠山史料館駐車場から南へ100m、
西側にある「高森お霊屋墓地」の一角に苗木遠山家廟所がある。緑色の屋根の東屋が目印だ。


◆東屋と大きな石の間の道を入った所が「高森お霊屋墓地」である。


◆入口に案内板があり、次のように記されている。


『高森お霊屋墓地は、江戸時代に苗木領を支配した大名遠山家とその家臣の墓地です。
初代大名遠山友政は慶長19(1614)年に菩提寺の雲林寺(臨済宗 墓地の東北部に跡地)を創設し、
この谷あいに墓地が拡充されました。

苗木藩は1万521石(後に1万21石)の小藩でしたが、領主の国替えがなく、
遠山家一系で明治を迎えたので、墓地はそのまま江戸時代の苗木藩の歴史を映しています。

明治3(1870)年、廃仏毀釈の断行で雲林寺は廃寺となりました。
幸い雲林寺過去帳は現存しており、墓碑銘と併せて家臣のルーツを知る貴重な手掛かりとなっています。

なお、「苗木明細記」によると、江戸時代、家臣の墓地は「卵塔墓(らんとうば)」と呼び、
遠山家の墓所は「霊屋(たまや)」と呼びました。
(廟所の図面も記載してあり、墓碑と墓主名がわかる。)』

◆通路を進むと左奥に石垣が見える。


◆石垣の上が廟所で、手前の階段が廟所への道となる。


◆少し進むと、右手の一段上がったところに廟所があり、藩主と家族の墓碑群が立ち並ぶ。合掌



◆正面奥の中央が初代友政公の墓碑(右側)。立派だ。


◆右が二代秀友公。


◆右が三代友貞公。


◆左が四代友春公、右が五代友由公。


◆右が六代友将(ともまさ)公。


◆左が七代友央(ともなか)公、右が十二代友禄(ともよし)公。


◆右が八代友明(ともあきら)公。


◆左端が九代友清公。


◆右が十代友随(ともより)公。


◆左が十一代友寿(ともひさ)公。


◆他に明治以降の十三代友悌氏、十四代友郷氏、十五代健彦氏の墓碑もある。

◆廟所は、きれいに整備されており、案内板によりどなたの墓碑かわかる。
大変良い大名墓地であった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:11Comments(0)武将のお墓参り

2017年09月28日

京都<本禅寺> 「加納藩主大久保忠職公」&「大垣藩主石川忠総公」の墓所 (武将のお墓参り25)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017年9月

★★「本禅寺」 京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町394 
境内に「加納藩主・大久保忠職公」と「大垣藩主・石川忠総公」の墓碑がある。

◆寺は京都御所の東側に位置し、五本線の入った土塀で囲まれている。
正面の門は、境内の西側にある。


◆境内は自由参拝。門を潜ると正面奥に本堂があり、参拝。


◆本堂の右前に塔頭心城院があり、その左隣りに塀に囲まれた墓地がある。


◆心城院境内の左端を塀に沿って進むと、墓地入口があった。


墓地の右手奥に、大久保家と石川家の大型の墓碑が並んでいた。しかし、境内や墓地に案内は何もなく、
刻まれた文字も読みづらいものが多く、ネットで調べた墓主名が頼りだった。

★「大久保家墓碑」 
◆ネット情報では、大久保家墓碑9基の右端が大久保忠教(彦左衛門)公。
しかし、現地ではどれが忠教公の墓碑かわからず、心城院の方に教えていただいた。


◆忠教公の墓碑は、横一列9基のうちの右端(宇津季之公)の後方にあった。
墓碑は単独で石塀に囲まれた五輪塔で、大久保平助と刻んであった。合掌


◆横一列に並ぶ墓碑は、右から順に宇津季之公、大久保新十郎公、忠倫公、


◆忠職公室、忠職公、忠常公、


◆忠隣公、忠世公で、左端の小さい五輪塔の墓主は不明。
忠隣公だけが宝篋印塔で、他は五輪塔だ。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・大久保忠教(ただたか、通称・彦左衛門、幼名・平助)公
・・・徳川家康公・秀忠公・家光公に仕えた旗本。天下の御意見番として名高い。

・宇津季之公・・・忠職公の三男
・大久保新十郎公・・・忠職公の長男

・大久保忠倫公・・・忠職公の次男
・大久保忠職公室・・・松平忠明公(美濃加納藩主・奥平信昌公四男)の娘

・大久保忠職(ただもと)公・・・武蔵騎西藩二代藩主➡美濃加納藩主➡播磨明石藩主➡
肥前唐津藩初代藩主。父・忠常公、母・奥平信昌公の娘千姫。

・大久保忠常公・・・武蔵国騎西(きさい)藩初代藩主。父・忠隣公、正室・奥平信昌公の娘。
石川忠総公の兄。

・大久保忠隣(ただちか)公・・・父・忠世公。家康公・秀忠公に仕えた。
武蔵羽生城主➡相模小田原藩初代藩主。しかし、突如改易となり、彦根藩お預けとなる。
その理由は諸説あり。忠隣公の孫忠朝公のときに、大久保氏は小田原藩主に返り咲いた。

・大久保忠世(ただよ)公・・・相模小田原藩祖。家康公に仕えた徳川十六神将の一人。
三方ヶ原の戦いや長篠の戦い等で武功あり。兄は忠教公。

◆大久保忠職公について「加納町史」に次のように記載されている。
『寛永九年(1632)正月11日、加納城を給わり五万石を領す。
加賀守忠常の嫡男。慶長九年(1604)小田原生まれ。母は、奥平信昌の女千姫。

同十六年(1611)父遺領武州騎西二万石を給う。
同十九年(1614)祖父忠隣が罪を蒙った時、蟄居。寛永二年(1626)赦免。同九年加納城主。

同十六年(1639)三月三日播磨国明石城へ二万石加増で七万石で移封。
慶安二年(1649)肥前唐津へ八万三千石で移封。

明暦十年(1670)江戸で卒去、六十七才。
本源院日禅大居士と号し、江戸白金立行寺に於て葬式、遺骨を京都本禅寺に納めた。

室は、姫路の松平忠明の女梅姫、元禄五年(1692)逝去。
嫡子忠朝は、その後佐倉城へ加増転封。さらに小田原城十一万三千石へ加増転封。』

★「石川家の墓碑」 
◆五輪塔が7基、横一列に並んでいた。


◆右から順に石川勝之公、義孝公、忠総公室、忠総公、


◆廉勝公、昌能公、憲之公である。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・石川勝之公・・・父・昌能公、世嗣のまま早世

・石川義孝公・・・父・憲之公、山城淀藩二代藩主
・石川忠総公室・・・堀尾吉晴公の娘

・石川忠総公・・・父・大久保忠隣公、家康公の命で外祖父・石川家成公の養子となる。
美濃大垣藩石川家三代藩主➡豊後日田藩主➡下総佐倉藩主➡近江膳所藩初代藩主。
家康公・秀忠公・家光公に仕えた。

・石川廉勝(かどかつ)公・・・父・忠総公、家督相続前に没した。
・石川昌能(まさよし)公・・・父・憲之公、日向守。嫡子のまま早世。

・石川憲之(のりゆき)公・・・父・廉勝公、近江膳所藩二代藩主➡伊勢亀山藩主➡山城淀藩初代藩主

◆心城院の方に、徳川家康公の側室と娘の墓碑、
「鐘楼に吊り下げられている鐘は、豊臣秀頼公が鋳造し、家康公が大坂夏の陣で陣鐘として使用。
忠教(彦左衛門)が持ち帰り奉納した。」と教えていただいた。お忙しい中ご案内いただき感謝。



以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:58Comments(0)武将のお墓参り

2017年09月26日

京都<大雲院>「織田信長公・織田信忠公墓所」 (武将のお墓参り24)

2017年9月<岐阜城主のお墓参り>

★大雲院 京都市東山区祇園町南側594-1
7月~9月に実施の「京の夏の旅」キャンペーンで特別公開している大雲院を訪れた。
祇園閣と寺宝を拝観、「織田信長公・信忠公供養塔」などに参拝できた。

◆大雲院は、高台寺前の「ねねの道」を北へ突き当たったところに位置している。


◆大雲院の総門は東側にあるが、特別公開の入口は「ねねの道」に面した南門であった。
門前に看板があり、「~エキゾチックな昭和の名建築 閣上からの絶景~大雲院 祇園閣
特別公開」と記してあった。特別公開のメインは「登録有形文化財の祇園閣」なのだ。


◆重厚な南門を潜って境内に入ると、目の前に本堂がある。
左に進むとすぐ右手に祇園閣が聳えていた。


元財閥大倉喜八郎が、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典記念に別荘内へ「祇園閣」を建てた。
京都を訪れたお客様に対し、祇園祭以外の季節にも祇園祭の鉾を披露するために建てたそうだ。
鉄筋コンクリート造三階建、高さ36m、鉾先に金鶏が羽を広げている。
設計は伊東忠太である。

祇園閣の入口は、階段を上った所にある。
入口前には、立派な阿吽のライオンの石像が向かい合っていた。
堂々としているが、よく見ると優しいお顔だ。とても素敵な像だ。



◆閣内は、撮影禁止だ。螺旋階段になっており、階段の壁には敦煌の壁画の模写が描かれている。
上るにつれて、異国風の仏や天女たちが次々に現れ、見応えがある。

最上階からの展望は、絶景だった。周りを360度眺めることができる。
西方は、ビルや現代の建物群がぎっしりと立ち並ぶ。北は平安神宮や京都大学など、
東は寺の甍越しに緑の山々、南は八坂の塔などが見える。

この絶景の写真を撮りたいと思ったが、ここも撮影禁止。
周りには、民家やマンションも多く、プライバシー保護のためだそうだ。
ガイドの方がいて、いろいろとお話を聞くことができて良かった。

◆祇園閣の南西側に墓地入口がある。
墓地入口の門は小さいが、門前の左右にある石灯籠は、どっしりして趣がある。


門の左脇に「織田信長公信忠公 墓所参道」と「石川五右衛門墓所参道」の石柱が立っている。
墓地内には、大泥棒「石川五右衛門」の墓もあるのだ。


◆墓地に入ってすぐ、参道は右に曲がっている。
少し進み左に折れると、奥の方に立派な「織田信長公・織田信忠公の供養塔」が立っていた。
供養塔は、二人で1基。右側に信長公、左側に信忠公の法名が刻まれている。合掌



墓碑の左脇に石碑があり、次のように刻まれている。
「織田信長公 織田信忠公 之墓所 天正年代菩薩堂安與愚和尚ノ寄進ニヨリ建立サレ
昭和五十四年三月吉日四条寺町大雲院墓地ヨリ 当地円山町大雲院墓地ニ移転ス」

◆石川五右衛門の墓所は矢印案内があり、分かりやすかった。
墓碑の右脇に「石川五右衛門墓所」の石碑がある。
低い玉垣に囲われ、中央に墓碑、両脇に石灯籠があった。合掌


◆本堂では、ガイドの方による大雲院の変遷、祇園閣、旧大倉財閥、五百羅漢図、
寺宝などの説明があった。大変わかりやすく、かつ、楽しく聞くことができた。(感謝)

大雲院は、「本能寺の変」の5年後の天正十五年(1587)、正親町天皇の勅命により、
信長公・信忠公の菩提を弔うために、御池御所(烏丸二条南)に建立された。
寺名を信長公の法名に因み総見院にしたかったが、総見院は大徳寺に豊臣秀吉公が建立した後であった。
そこで、信忠公の法名・大雲院殿に因んで「大雲院」と名付けたそうだ。

その後、秀吉公が寺域が狭いというので、天正十八年(1590)に寺町四条(現・高島屋あたり)に移転。
さらに、周辺が繁華街の中心となったため、昭和四十八年(1973)に現在地へ移転して現在に至る。

本堂内には、織田信忠公の坐像があったが、遠いし暗くてお姿がよく見えなかった。残念

◆境内の龍池会館に寺宝の一部が展示されている。
信長公から安土宗論の勝者・貞安上人に下付された軍配団扇、後陽成天皇の御宸筆、若冲、応挙、
富岡鉄斎の絵画などの貴重な寺宝を拝観できた。

◆大雲院は、常時公開ではない。3年程前にも特別公開があったそうだ。
今回は、たまたま特別公開を知ることができた。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:09Comments(0)武将のお墓参り

2017年08月03日

岐阜県各務原市<少林寺> 「旗本坪内氏墓所」 (武将のお墓参り23)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017年7月 
★★少林寺「旗本坪内氏墓所」
岐阜県各務原市那加新加納町2104-1、境内自由

◆少林寺にある「旗本坪内氏歴代墓所」を訪れた。


◆少林寺は、戦国時代に兵火に焼かれ断絶した。
しかし、天保元年(1644)に旗本坪内氏の二代「家定公」が再興し、累代の菩提寺とした。

寺のすぐ南側に「旗本坪内(新加納)陣屋跡」があった。訪れた時は、そこは更地で公園予定地になっていた。
近くの中山道の一里塚跡に案内看板「中山道間の宿 新加納のご案内」があり、
「旗本坪内陣屋」について次のように記されていた。

「新加納周辺を治めていた坪内氏の初代は、松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、
織田家に仕え蜂須賀小六ら川並衆をまとめていた。

4代利定は、関ケ原の戦いで徳川隊の鉄砲隊を率いて活躍。
これにより6530石を治める旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋に移した。

陣屋は、巨大な濠(幅5,2m以上、深さ約3m)と土塁(約3m)に囲まれ、強固な防衛施設として建設された。
旗本坪内氏は、利定以降11定益まで続き、明治元年領地を奉還した。」

関ケ原の合戦で、坪内利定公は子4名と共に東軍に加わり武功を挙げた。
そして、利定公は初代旗本となる。
知行地は、宗家領(御納戸)、内分家領(御内分)、分家領(御分知)に分かれていた。

内分家は三家あり、各務原市内にそれぞれ領地・陣屋を持つ「三井坪内氏」と「前渡坪内氏」と
「平島坪内氏」であった。
分家は二家あり、江戸に屋敷を持つ築地坪内氏と貝坂坪内氏であった。

◆訪問した少林寺は、旧中山道から少し奥に入ったところにある。


◆境内に入り、真っすぐ参道を進む。突き当りのお堂の前を左に折れると山門がある。


◆山門を潜ると、正面に鐘楼があり、その右を奥に行くと本堂の前に出る。本堂で参拝。



◆本堂の左方に墓地の入口がある。


◆墓地に入ってすぐ右側が内分家「三井坪内氏墓所」であった。合掌 
大小の墓碑が、玉垣の上に隙間なく並んでいる。


◆正面に法名、側面に俗名と没年が刻まれているものもあった。奥の方にあり読めないものもある。
俗名が読めたのは、「定民公、定経公、定秀公、定高公、定並公、定職公」。


◆墓地へ入って突き当りの右側に「市指定史跡 旗本坪内家墓所」の標柱がある。


◆玉垣の上には、旗本宗家二代「家定公」ほかの墓碑が並んでいた。合掌
中央が家定公の墓碑とわかったが、他は俗名がわからなかった。


◆その右手に内分家「前渡坪内氏」らしい墓所がある。合掌 
隙間なく並んでいる墓碑は、俗名がわかったのは「定效公」だけだった。



◆さらに右隣りには内分家「平島坪内氏墓所」があった。合掌 
こちらの墓碑も隙間なく並んでいたが、俗名を読めるものが多かった。


読めたのは、「定英公、判定公、定基公、定覚公、定侯公、定矩公、定興公、定通公」。


◆本堂のすぐ左側に、開基「東陽英朝大和尚」の墓所の参道がある。
突き当りが和尚の墓所で、墓は土饅頭だった。合掌


◆和尚の墓の左に、立派な墓碑が6基並ぶ。「宗家坪内氏墓所」であった。合掌
左から順に、「8代定系(さだつぐ)公、7代定孝公、9代定儀(さだのり)公、
4代定長公、5代定重公、6代定堅公」の墓碑である。


◆境内及び墓所には、家定公墓碑前に「旗本坪内家墓所」の標柱があるのみであった。
坪内氏についての詳しい説明や、墓碑の案内が欲しかった。

墓所は整備されており、旗本坪内氏や夫人たちの立派な墓碑がたくさん並んでいた。
貴重な史跡である。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 15:14Comments(0)武将のお墓参り

2017年07月31日

岐阜県羽島市<金宝寺> 「八神城主毛利氏歴代の墓」 (武将のお墓参り22)

★「美濃国ゆかりの武将」のお墓参り

2017年6月、岐阜県羽島市の金宝寺にある八神城主毛利氏歴代の墓所を訪れた。
(住所は、羽島市桑原町八神2221)

桑原町誌に次のように記載されている。
『八神城主毛利氏は、鎌倉時代から尾張国長岡庄の司職として、この地方の地頭あるいは領主として
羽島市下中町石田や桑原町八神に居城を構え、幕末まで居住してきた。
土岐頼芸、織田信長、織田信雄、豊臣秀吉、池田輝政、織田秀信らに仕え、徳川家に仕えた。

八神毛利氏歴代の墓が金宝寺にある。高さ160cm前後の墓が13基。
尾張藩の家老格世臣として仕えた八神城主13人の墓碑群で、
境内にはこの他にも毛利家にかかわりのある墓碑が大小50基。

ほとんどは花崗岩の墓石で、表に院号法名、左右に没年が刻んである。
墓碑の並びは、歴代順になっていない。
西口がコの字形で、そこから東の方に並列に並んでいる。

寺は慶長元年(1596)の創立で、毛利広次の開基。』

ナビで住所検索して向かったところ、境内北側の細い道に案内された。
境内の入口は南側だったので、水田の間の細い道を遠回りすることとなった。

境内南側に山門が建ち、その左側に文化財標柱や案内板がある。


標柱は右から順に、「円空仏如来像」、「八神毛利氏歴代の墓」、「金宝寺の駕籠」と記されている。


案内板には次のように記されているが、簡単すぎて物足りない。
『岐阜県・羽島市史跡 八神毛利氏歴代の墓 八神毛利氏は三千石余を領有し、
市内桑原町八神に居を構えて名古屋藩に仕えたが、

その初代(毛利掃部介広次・元和二年十二月十四日没・八十四才)より版籍を奉還した。
十三代(毛利源内広貫・明治二十一年六月に二十五日没・六十一才)の墓碑が
菩提所である当寺の墓地に建てられており、史的価値は極めて高い。』

山門を潜ると正面に本堂があり参拝。


境内の左方に鐘楼があり、その右側が墓地の入口である。


墓地は少し低くなっている。階段を降りて墓地に入り、すぐ右に進む。


正面奥の一画が、毛利氏歴代の墓所だった。
墓所の南側中央が入口になっており、コの字形(長方形)に墓碑が並んでいた。


墓所には、高さ160cm程の特大から小型まで多くの墓碑が立ち並ぶ。壮観だ。合掌
右側の墓碑群。後ろに本堂がある。



墓所内右側の南側の墓碑群。




墓所内右側の北側の墓碑群。



墓所内左側の墓碑群。奥の南側にも小さな入口がある。





墓碑には、番号を書いた紙片が置かれているものもあった。お名前は書かれてない。
ほとんどは花崗岩の墓石である。
正面に院号法名、左右に没年が刻まれているが、摩耗して読みずらいものもある。

この中に初代から十三代までの歴代城主の墓碑があるらしいが、墓所には何の案内もない。
どれがどなたの墓碑かわからず、残念だった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:34Comments(0)武将のお墓参り

2017年06月01日

<岐阜県可児市>ゆかりの武将 その3 「直参旗本&尾張徳川家家老 千村家」 (武将のお墓参り21)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

「岐阜県可児市」ゆかりの武将 その3
江戸時代、直参旗本及び尾張徳川家の家老であった千村氏ゆかりの地を訪れた。

2017年5月、最初に「千村氏屋敷跡(上屋敷)」に建つ可児市郷土歴史館と周辺、
次に「下屋敷跡の「木曽千村歴史館(春秋園)」を訪れた。
その後、菩提所「東禅寺」で歴代当主の墓参をした。

①★「千村氏屋敷跡」&「可児市郷土歴史館」 可児市久々利1644-1
可児市郷土郷土館の周辺が、千村氏上屋敷跡である。
郷土館の西方100m程の交差点・北東角に「市指定史跡 千村氏屋敷跡」の案内板がある。


記載内容は次の通り。
『千村氏は関ケ原合戦の後に、久々利村を含む四六00石余を与えられ、
直参旗本、尾張徳川家の家老として、明治維新までこの地に屋敷を構えていました。

久々利には山村家や同心屋敷も置かれ、一つの政治拠点ともなっていました。
千村氏の屋敷は、「濃州徇行記」によると東西約三00m、南北約二七0mあり、
「郭外濠ありて城郭の如し」と記され、上屋敷と下屋敷、庭園をもつ広大なものでした。

上屋敷はこの場所にありましたが、今では石垣の一部が現存しているにすぎません。
上屋敷には二0を超える部屋があり、政務の場と奥向きの生活の場に分かれ、
中奥でつながれていました。

政務の場には、家老の部屋や勘定所などがあり、
役所として執務が行われていたため、「久々利役所」と称されました。

また、上屋敷の西側には下屋敷があり、隠居や部屋住みの者の生活の場として用いられました。
その北側には、回遊式庭園「春秋園」が付随し、今なお四季折々の美しい景色を見ることができます。

また、千村家の菩提寺である東禅寺には、千村家歴代当主の墓石が林立し、
千村家の権威と格式の高さがうかがえます。』上屋敷平面図も記してある。

②★下屋敷跡の「木曽千村歴史館(春秋園)」 可児市久々利1644-1
歴史館前に案内板「木曽千村歴史館、源木曽義仲後裔之地」があり、
記載内容は次の通り。「久々利旗本領鳥瞰図」もある。

『・木曽・千村家について
清和源氏源(木曽)義仲6代の孫、木曽家村信州木曽を領す。
家村5男、家重が上野国千村郷を領し、以後千村と称す。

家重より12代千村政直の子、良重(久々利初代)慶長5年関ケ原の役、
徳川家康の命により、木曽谷の平定と岩村苗木城を攻略。その論賞により、
美濃可児郡(久々利・大森・比衣・中切・綱木・小和沢・宿・伊岐津志)、

土岐郡(大湫・田高戸・深沢・一日市場・次月)、恵那郡{正家・辻原・千旦林・駒場・茄子川・落合)を給され、
又信州一万石の代官(大河・原・鹿塩・加々須・南山・中坪・野口・八手・清内路・小川・上穂・小野)11ケ村、

遠州舟明村榑木山支配、遠州4ケ村代官職共幕府から命ぜられ、
美濃国久々利に館を、信州飯田荒町に陣屋をもうけ役務を司どった。

・元和3年、徳川家康は木曽を尾張藩に附属、千村家も尾張家中となり幕府に対して陪臣となるが、
伊那代官等は依然として幕府から命ぜられ、尾張藩からは名古屋に、幕府からは江戸に屋敷を拝領。

家督相続や将軍家の慶仏には諸侯同様江戸城へ伺候、将軍に挨拶するという特別な扱いで、
尾張藩では城代格に、幕府にあっては旗本外様大名列、柳の間詰で、
公儀の千村家に対する待遇は10万石の格式で参勤交代の義務を負わされていた。

幕藩両属という特殊な立場で、代々千村平右衛門を襲名し、慶長から明治維新まで12代続いた。
維新後、千村から旧姓木曽に復した。』

・その日は休館であったが、入り口で声を掛けたら、「春秋園」には入って良いと了解を得た。
下屋敷と春秋園は道路で南北に分断され、北側に鶴池、南側に亀池がある。
 
鶴池のある庭は、雑草を刈り、きれいにしてあったが、雑然とした感じであった。
だが、池を中心にした池泉回遊式庭園は、素晴らしい庭であった。石組や庭木の配置が素晴らしい。




古びた東屋も風景に溶け込んでいた。もう少し整備すれば、名園となる。
南側の亀池周辺の庭は、こじんまりし、中心の池の水は空で残念だった。

➂★千村氏菩提寺 東禅寺 可児市久々利1655
春秋園(鶴池)の北側、山際に寺がある。
寺の入口は境内西側にあり、奥に本堂や美しい海鼠塀が見える。


新緑に本堂や塀が溶け込んで、美しい風景になっている。


「千村家の墓所」への参道は、海鼠塀の手前にある小路である。


道路沿いに案内板があり、次のように記してある。
『市指定重要文化財(史跡) 千村家の墓所

千村家の墓所は東禅寺の境内の一画にあり、
一代良重から第一一代仲展までの歴代当主とその一族の墓石が並んでいる。

久々利千村家の初代良重の墓は廟に納められており、
墓碑によると、天保十五年(一八四四)に千村仲冬が新たに建てたとある。

以下、二代から五代までは廟の西側に、六代(八代のみ廟の東側)からは廟の裏側に並んでいる。
大きなものは高さ三メートルを超す立派なものもあり、千村家の格式の高さを感じさせる。

千村家は江戸時代に幕府代官と尾張藩家臣という二つの立場を有し、久々利の地に屋敷を構え、
東禅寺を菩提寺とした。
東禅寺は、慶長十六年(一六一一)に縁国である下総国から藍外政宗を迎え、梁南禅棟が開山したお寺である。

(「当主名・生没年・法名」が、初代から十一代まで記されている。
・・・1良重・2重長・3基寛・4仲興・5仲成・6政成・7政武・8頼久・9仲雄・10仲泰・11仲展) 』

海鼠塀沿いに奥に進むと小さな門があり、そこが墓所の入口である。
手前に小さな標柱「千村家の墓所」がある。


門を潜ると左側に、一段高くなった千村家の墓所がある。
当主とその一族の墓碑が林立しており、壮観である。合掌




初代良重公の木造の廟は、墓所の奥の方、右手にある。
廟は初代のみである。扉は閉まっていた。合掌


「二代重長公」の墓碑は立派な剣碑だ。(三代以降も剣碑)合掌 


右側「三代基寛公」、左側「四代仲興公」の墓碑も立派だ。合掌


左端が「五代仲成公」の墓碑。合掌 


奥に並ぶ墓碑は、左から順に「七代政武公」「十一代仲展公」「六代政成公」「十代仲泰公」。合掌


「八代頼久公」の墓碑は初代良重公廟の前。合掌 


「九代仲雄公」の墓碑。合掌 


墓所はきれいに整備され、当主の墓碑には当主名が刻まれた献花台が置かれている。
今まで訪れたなかでも上位に位置する素晴らしい墓所であった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:52Comments(0)武将のお墓参り