2017年10月17日

「中津川市苗木遠山史料館」&「苗木遠山家廟所」 (武将のお墓参り26)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017.10訪問
岐阜県中津川市苗木地区の「中津川市苗木遠山史料館」と「苗木遠山家廟所」

★中津川市苗木遠山史料館
・中津川市苗木2897-2、月曜休館(月曜日が祝日の場日は翌日)、9:30~17:00

・史料館は、苗木城の麓に建っている。雲林寺の塔頭があったところだそうだ。
中世、戦国時代から明治時代初期に至る苗木遠山家の資料を中心に展示している。
苗木城跡の探訪前や、苗木藩の歴史を知るには、ぜひ訪れたいところだ。

・入館すると、チラシ「苗木遠山史料館」と「苗木城跡(6タイプの石垣探索などを記載)」をいただける。
展示品の中でも苗木城模型は、立体的で城の造りがよくわかる秀作である。
写真撮影可なのもうれしい。(展示の一部は写真撮影可)


・展示室に、「苗木城見取図」「中世・近世の苗木領主(領主名一覧)」
「激動期の苗木(苗木藩の幕末、廃仏毀釈)」の持ち帰り用資料が置いてあるのもうれしい。
パンフレット「国指定史跡苗木城跡」「中津川観光ガイドマップ」なども置いてある。

・2階への階段の壁には、歴代苗木藩主の肖像画の写真が展示してある。
写実的で藩主の個性ある姿を知ろことができる。

・2階では、「特別展 ふるさと中津川の先人 前田青邨」展(2017年10月7日~11月5日)が
開催されており、青邨画伯の日本画や天井絵、「皇居・石橋の間」の下絵などを鑑賞できた。

・入り口付近に、苗木藩などについて書かれた書籍・資料も多数揃えてある。
時間があればゆっくり読みたかった。

★苗木遠山家廟所(雲林寺跡)
・中津川市苗木2875、苗木遠山史料館駐車場から南へ100m、
西側にある「高森お霊屋墓地」の一角に苗木遠山家廟所がある。緑色の屋根の東屋が目印だ。


・東屋と大きな石の間の道を入った所が「高森お霊屋墓地」である。


・入口に案内板があり、次のように記されている。


『高森お霊屋墓地は、江戸時代に苗木領を支配した大名遠山家とその家臣の墓地です。
初代大名遠山友政は慶長19(1614)年に菩提寺の雲林寺(臨済宗 墓地の東北部に跡地)を創設し、
この谷あいに墓地が拡充されました。

苗木藩は1万521石(後に1万21石)の小藩でしたが、領主の国替えがなく、
遠山家一系で明治を迎えたので、墓地はそのまま江戸時代の苗木藩の歴史を映しています。

明治3(1870)年、廃仏毀釈の断行で雲林寺は廃寺となりました。
幸い雲林寺過去帳は現存しており、墓碑銘と併せて家臣のルーツを知る貴重な手掛かりとなっています。

なお、「苗木明細記」によると、江戸時代、家臣の墓地は「卵塔墓(らんとうば)」と呼び、
遠山家の墓所は「霊屋(たまや)」と呼びました。
(廟所の図面も記載してあり、墓碑と墓主名がわかる。)』

・通路を進むと左奥に石垣が見える。


・石垣の上が廟所で、手前の階段が廟所への道となる。


・少し進むと、右手の一段上がったところに廟所があり、藩主と家族の墓碑群が立ち並ぶ。合掌



・正面奥の中央が初代友政公の墓碑(右側)。立派だ。


・右が二代秀友公。


・右が三代友貞公。


・左が四代友春公、右が五代友由公。


・右が六代友将(ともまさ)公。


・左が七代友央(ともなか)公、右が十二代友禄(ともよし)公。


・右が八代友明(ともあきら)公。


・左端が九代友清公。


・右が十代友随(ともより)公。


・左が十一代友寿(ともひさ)公。


・他に明治以降の十三代友悌氏、十四代友郷氏、十五代健彦氏の墓碑もある。

・廟所は、きれいに整備されており、案内板によりどなたの墓碑かわかる。
大変良い大名墓地であった。

以上  


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2017年09月28日

京都<本禅寺> 「加納藩主大久保忠職公」&「大垣藩主石川忠総公」の墓所 (武将のお墓参り25)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

★本禅寺 住所:京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町394 
境内に「加納藩主・大久保忠職公」と「大垣藩主・石川忠総公」の墓碑がある。

◆寺は京都御所の東側に位置し、五本線の入った土塀で囲まれている。
正面の門は、境内の西側にある。


境内は自由参拝。門を潜ると正面奥に本堂があり、参拝。


本堂の右前に塔頭心城院があり、その左隣りに塀に囲まれた墓地がある。


心城院境内の左端を塀に沿って進むと、墓地入口があった。


墓地の右手奥に、大久保家と石川家の大型の墓碑が並んでいた。しかし、境内や墓地に案内は何もなく、
刻まれた文字も読みづらいものが多く、ネットで調べた墓主名が頼りだった。

◆「大久保家墓碑」 
ネット情報では、大久保家墓碑9基の右端が大久保忠教(彦左衛門)公。
しかし、現地ではどれが忠教公の墓碑かわからず、心城院の方に教えていただいた。


忠教公の墓碑は、横一列9基のうちの右端(宇津季之公)の後方にあった。
墓碑は単独で石塀に囲まれた五輪塔で、大久保平助と刻んであった。合掌


◆横一列に並ぶ墓碑は、右から順に宇津季之公、大久保新十郎公、忠倫公、


忠職公室、忠職公、忠常公、


忠隣公、忠世公で、左端の小さい五輪塔の墓主は不明。
忠隣公だけが宝篋印塔で、他は五輪塔だ。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・大久保忠教(ただたか、通称・彦左衛門、幼名・平助)公
・・・徳川家康公・秀忠公・家光公に仕えた旗本。天下の御意見番として名高い。

・宇津季之公・・・忠職公の三男
・大久保新十郎公・・・忠職公の長男

・大久保忠倫公・・・忠職公の次男
・大久保忠職公室・・・松平忠明公(美濃加納藩主・奥平信昌公四男)の娘

・大久保忠職(ただもと)公・・・武蔵騎西藩二代藩主➡美濃加納藩主➡播磨明石藩主➡
肥前唐津藩初代藩主。父・忠常公、母・奥平信昌公の娘千姫。

・大久保忠常公・・・武蔵国騎西(きさい)藩初代藩主。父・忠隣公、正室・奥平信昌公の娘。
石川忠総公の兄。

・大久保忠隣(ただちか)公・・・父・忠世公。家康公・秀忠公に仕えた。
武蔵羽生城主➡相模小田原藩初代藩主。しかし、突如改易となり、彦根藩お預けとなる。
その理由は諸説あり。忠隣公の孫忠朝公のときに、大久保氏は小田原藩主に返り咲いた。

・大久保忠世(ただよ)公・・・相模小田原藩祖。家康公に仕えた徳川十六神将の一人。
三方ヶ原の戦いや長篠の戦い等で武功あり。兄は忠教公。

◆「石川家の墓碑」 
五輪塔が7基、横一列に並んでいた。


右から順に石川勝之公、義孝公、忠総公室、忠総公、


廉勝公、昌能公、憲之公である。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・石川勝之公・・・父・昌能公、世嗣のまま早世

・石川義孝公・・・父・憲之公、山城淀藩二代藩主
・石川忠総公室・・・堀尾吉晴公の娘

・石川忠総公・・・父・大久保忠隣公、家康公の命で外祖父・石川家成公の養子となる。
美濃大垣藩石川家三代藩主➡豊後日田藩主➡下総佐倉藩主➡近江膳所藩初代藩主。
家康公・秀忠公・家光公に仕えた。

・石川廉勝(かどかつ)公・・・父・忠総公、家督相続前に没した。
・石川昌能(まさよし)公・・・父・憲之公、日向守。嫡子のまま早世。

・石川憲之(のりゆき)公・・・父・廉勝公、近江膳所藩二代藩主➡伊勢亀山藩主➡山城淀藩初代藩主

◆心城院の方に、徳川家康公の側室と娘の墓碑、
「鐘楼に吊り下げられている鐘は、豊臣秀頼公が鋳造し、家康公が大坂夏の陣で陣鐘として使用。
忠教(彦左衛門)が持ち帰り奉納した。」と教えていただいた。お忙しい中ご案内いただき感謝。



以上  


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2017年09月26日

京都<大雲院>「織田信長公・織田信忠公墓所」 (武将のお墓参り24)

2017年9月<岐阜城主のお墓参り>

★大雲院 京都市東山区祇園町南側594-1
7月~9月に実施の「京の夏の旅」キャンペーンで特別公開している大雲院を訪れた。
祇園閣と寺宝を拝観、「織田信長公・信忠公供養塔」などに参拝できた。

◆大雲院は、高台寺前の「ねねの道」を北へ突き当たったところに位置している。


◆大雲院の総門は東側にあるが、特別公開の入口は「ねねの道」に面した南門であった。
門前に看板があり、「~エキゾチックな昭和の名建築 閣上からの絶景~大雲院 祇園閣
特別公開」と記してあった。特別公開のメインは「登録有形文化財の祇園閣」なのだ。


◆重厚な南門を潜って境内に入ると、目の前に本堂がある。
左に進むとすぐ右手に祇園閣が聳えていた。


元財閥大倉喜八郎が、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典記念に別荘内へ「祇園閣」を建てた。
京都を訪れたお客様に対し、祇園祭以外の季節にも祇園祭の鉾を披露するために建てたそうだ。
鉄筋コンクリート造三階建、高さ36m、鉾先に金鶏が羽を広げている。
設計は伊東忠太である。

祇園閣の入口は、階段を上った所にある。
入口前には、立派な阿吽のライオンの石像が向かい合っていた。
堂々としているが、よく見ると優しいお顔だ。とても素敵な像だ。



◆閣内は、撮影禁止だ。螺旋階段になっており、階段の壁には敦煌の壁画の模写が描かれている。
上るにつれて、異国風の仏や天女たちが次々に現れ、見応えがある。

最上階からの展望は、絶景だった。周りを360度眺めることができる。
西方は、ビルや現代の建物群がぎっしりと立ち並ぶ。北は平安神宮や京都大学など、
東は寺の甍越しに緑の山々、南は八坂の塔などが見える。

この絶景の写真を撮りたいと思ったが、ここも撮影禁止。
周りには、民家やマンションも多く、プライバシー保護のためだそうだ。
ガイドの方がいて、いろいろとお話を聞くことができて良かった。

◆祇園閣の南西側に墓地入口がある。
墓地入口の門は小さいが、門前の左右にある石灯籠は、どっしりして趣がある。


門の左脇に「織田信長公信忠公 墓所参道」と「石川五右衛門墓所参道」の石柱が立っている。
墓地内には、大泥棒「石川五右衛門」の墓もあるのだ。


◆墓地に入ってすぐ、参道は右に曲がっている。
少し進み左に折れると、奥の方に立派な「織田信長公・織田信忠公の供養塔」が立っていた。
供養塔は、二人で1基。右側に信長公、左側に信忠公の法名が刻まれている。合掌



墓碑の左脇に石碑があり、次のように刻まれている。
「織田信長公 織田信忠公 之墓所 天正年代菩薩堂安與愚和尚ノ寄進ニヨリ建立サレ
昭和五十四年三月吉日四条寺町大雲院墓地ヨリ 当地円山町大雲院墓地ニ移転ス」

◆石川五右衛門の墓所は矢印案内があり、分かりやすかった。
墓碑の右脇に「石川五右衛門墓所」の石碑がある。
低い玉垣に囲われ、中央に墓碑、両脇に石灯籠があった。合掌


◆本堂では、ガイドの方による大雲院の変遷、祇園閣、旧大倉財閥、五百羅漢図、
寺宝などの説明があった。大変わかりやすく、かつ、楽しく聞くことができた。(感謝)

大雲院は、「本能寺の変」の5年後の天正十五年(1587)、正親町天皇の勅命により、
信長公・信忠公の菩提を弔うために、御池御所(烏丸二条南)に建立された。
寺名を信長公の法名に因み総見院にしたかったが、総見院は大徳寺に豊臣秀吉公が建立した後であった。
そこで、信忠公の法名・大雲院殿に因んで「大雲院」と名付けたそうだ。

その後、秀吉公が寺域が狭いというので、天正十八年(1590)に寺町四条(現・高島屋あたり)に移転。
さらに、周辺が繁華街の中心となったため、昭和四十八年(1973)に現在地へ移転して現在に至る。

本堂内には、織田信忠公の坐像があったが、遠いし暗くてお姿がよく見えなかった。残念

◆境内の龍池会館に寺宝の一部が展示されている。
信長公から安土宗論の勝者・貞安上人に下付された軍配団扇、後陽成天皇の御宸筆、若冲、応挙、
富岡鉄斎の絵画などの貴重な寺宝を拝観できた。

◆大雲院は、常時公開ではない。3年程前にも特別公開があったそうだ。
今回は、たまたま特別公開を知ることができた。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:09Comments(0)武将のお墓参り

2017年08月03日

岐阜県各務原市の少林寺「旗本坪内氏墓所」 (武将のお墓参り23)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 
岐阜県各務原市の少林寺「旗本坪内氏墓所」

2017年7月、各務原市の少林寺にある「旗本坪内氏歴代墓所」を訪れた。
(住所:各務原市那加新加納町2104-1)


少林寺は、戦国時代に兵火に焼かれ断絶した。
しかし、天保元年(1644)に旗本坪内氏の二代「家定公」が再興し、累代の菩提寺とした。

寺のすぐ南側に「旗本坪内(新加納)陣屋跡」があった。訪れた時は、そこは更地で公園予定地になっていた。
近くの中山道の一里塚跡に案内看板「中山道間の宿 新加納のご案内」があり、
「旗本坪内陣屋」について次のように記されていた。

「新加納周辺を治めていた坪内氏の初代は、松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、
織田家に仕え蜂須賀小六ら川並衆をまとめていた。

4代利定は、関ケ原の戦いで徳川隊の鉄砲隊を率いて活躍。
これにより6530石を治める旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋に移した。

陣屋は、巨大な濠(幅5,2m以上、深さ約3m)と土塁(約3m)に囲まれ、強固な防衛施設として建設された。
旗本坪内氏は、利定以降11定益まで続き、明治元年領地を奉還した。」

関ケ原の合戦で、坪内利定公は子4名と共に東軍に加わり武功を挙げた。
そして、利定公は初代旗本となる。
知行地は、宗家領(御納戸)、内分家領(御内分)、分家領(御分知)に分かれていた。

内分家は三家あり、各務原市内にそれぞれ領地・陣屋を持つ「三井坪内氏」と「前渡坪内氏」と
「平島坪内氏」であった。
分家は二家あり、江戸に屋敷を持つ築地坪内氏と貝坂坪内氏であった。

訪問した少林寺は、旧中山道から少し奥に入ったところにある。


境内に入り、真っすぐ参道を進む。突き当りのお堂の前を左に折れると山門がある。


山門を潜ると、正面に鐘楼があり、その右を奥に行くと本堂の前に出る。本堂で参拝。



本堂の左方に墓地の入口がある。


墓地に入ってすぐ右側が内分家「三井坪内氏墓所」であった。合掌 
大小の墓碑が、玉垣の上に隙間なく並んでいる。


正面に法名、側面に俗名と没年が刻まれているものもあった。奥の方にあり読めないものもある。
俗名が読めたのは、「定民公、定経公、定秀公、定高公、定並公、定職公」。


墓地へ入って突き当りの右側に「市指定史跡 旗本坪内家墓所」の標柱がある。


玉垣の上には、旗本宗家二代「家定公」ほかの墓碑が並んでいた。合掌
中央が家定公の墓碑とわかったが、他は俗名がわからなかった。


その右手に内分家「前渡坪内氏」らしい墓所がある。合掌 
隙間なく並んでいる墓碑は、俗名がわかったのは「定效公」だけだった。



さらに右隣りには内分家「平島坪内氏墓所」があった。合掌 
こちらの墓碑も隙間なく並んでいたが、俗名を読めるものが多かった。


読めたのは、「定英公、判定公、定基公、定覚公、定侯公、定矩公、定興公、定通公」。


本堂のすぐ左側に、開基「東陽英朝大和尚」の墓所の参道がある。
突き当りが和尚の墓所で、墓は土饅頭だった。合掌


和尚の墓の左に、立派な墓碑が6基並ぶ。「宗家坪内氏墓所」であった。合掌
左から順に、「8代定系(さだつぐ)公、7代定孝公、9代定儀(さだのり)公、
4代定長公、5代定重公、6代定堅公」の墓碑である。


境内及び墓所には、家定公墓碑前に「旗本坪内家墓所」の標柱があるのみであった。
坪内氏についての詳しい説明や、墓碑の案内が欲しかった。

墓所は整備されており、旗本坪内氏や夫人たちの立派な墓碑がたくさん並んでいた。
貴重な史跡である。

以上  


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2017年07月31日

岐阜県羽島市の金宝寺 「八神城主毛利氏歴代の墓」 (武将のお墓参り22)

★「美濃国ゆかりの武将」のお墓参り

2017年6月、岐阜県羽島市の金宝寺にある八神城主毛利氏歴代の墓所を訪れた。
(住所は、羽島市桑原町八神2221)

桑原町誌には、
「八神城主毛利氏は、鎌倉時代から尾張国長岡庄の司職として、この地方の地頭あるいは領主として
羽島市下中町石田や桑原町八神に居城を構え、幕末まで居住してきた。
土岐頼芸、織田信長、織田信雄、豊臣秀吉、池田輝政、織田秀信らに仕え、徳川家に仕えた。

八神毛利氏歴代の墓が金宝寺にある。高さ160cm前後の墓が13基。
尾張藩の家老格世臣として仕えた八神城主13人の墓碑群で、
境内にはこの他にも毛利家にかかわりのある墓碑が大小50基。

ほとんどは花崗岩の墓石で、表に院号法名、左右に没年が刻んである。
墓碑の並びは、歴代順になっていない。
西口がコの字形で、そこから東の方に並列に並んでいる。

寺は慶長元年(1596)の創立で、毛利広次の開基。」とある。

ナビで住所検索して向かったところ、境内北側の細い道に案内された。
境内の入口は南側だったので、水田の間の細い道を遠回りすることとなった。

境内南側に山門が建ち、その左側に文化財標柱や案内板がある。


標柱は右から順に、「円空仏如来像」、「八神毛利氏歴代の墓」、「金宝寺の駕籠」と記されている。


案内板には次のように記されているが、簡単すぎて物足りない。
「岐阜県・羽島市史跡 八神毛利氏歴代の墓 八神毛利氏は三千石余を領有し、
市内桑原町八神に居を構えて名古屋藩に仕えたが、

その初代(毛利掃部介広次・元和二年十二月十四日没・八十四才)より版籍を奉還した。
十三代(毛利源内広貫・明治二十一年六月に二十五日没・六十一才)の墓碑が
菩提所である当寺の墓地に建てられており、史的価値は極めて高い。」

山門を潜ると正面に本堂があり参拝。


境内の左方に鐘楼があり、その右側が墓地の入口である。


墓地は少し低くなっている。階段を降りて墓地に入り、すぐ右に進む。


正面奥の一画が、毛利氏歴代の墓所だった。
墓所の南側中央が入口になっており、コの字形(長方形)に墓碑が並んでいた。


墓所には、高さ160cm程の特大から小型まで多くの墓碑が立ち並ぶ。壮観だ。合掌
右側の墓碑群。後ろに本堂がある。



墓所内右側の南側の墓碑群。




墓所内右側の北側の墓碑群。



墓所内左側の墓碑群。奥の南側にも小さな入口がある。





墓碑には、番号を書いた紙片が置かれているものもあった。お名前は書かれてない。
ほとんどは花崗岩の墓石である。
正面に院号法名、左右に没年が刻まれているが、摩耗して読みずらいものもある。

この中に初代から十三代までの歴代城主の墓碑があるらしいが、墓所には何の案内もない。
どれがどなたの墓碑かわからず、残念だった。

以上  


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2017年06月01日

<岐阜県可児市>ゆかりの武将 その3 「直参旗本&尾張徳川家家老 千村家」 (武将のお墓参り21)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

「岐阜県可児市」ゆかりの武将 その3
江戸時代、直参旗本及び尾張徳川家の家老であった千村氏ゆかりの地を訪れた。

2017年5月、最初に「千村氏屋敷跡(上屋敷)」に建つ可児市郷土歴史館と周辺、
次に「下屋敷跡の「木曽千村歴史館(春秋園)」を訪れた。
その後、菩提所「東禅寺」で歴代当主の墓参をした。

①★「千村氏屋敷跡」&「可児市郷土歴史館」 可児市久々利1644-1
可児市郷土郷土館の周辺が、千村氏上屋敷跡である。
郷土館の西方100m程の交差点・北東角に「市指定史跡 千村氏屋敷跡」の案内板がある。


記載内容は次の通り。
『千村氏は関ケ原合戦の後に、久々利村を含む四六00石余を与えられ、
直参旗本、尾張徳川家の家老として、明治維新までこの地に屋敷を構えていました。

久々利には山村家や同心屋敷も置かれ、一つの政治拠点ともなっていました。
千村氏の屋敷は、「濃州徇行記」によると東西約三00m、南北約二七0mあり、
「郭外濠ありて城郭の如し」と記され、上屋敷と下屋敷、庭園をもつ広大なものでした。

上屋敷はこの場所にありましたが、今では石垣の一部が現存しているにすぎません。
上屋敷には二0を超える部屋があり、政務の場と奥向きの生活の場に分かれ、
中奥でつながれていました。

政務の場には、家老の部屋や勘定所などがあり、
役所として執務が行われていたため、「久々利役所」と称されました。

また、上屋敷の西側には下屋敷があり、隠居や部屋住みの者の生活の場として用いられました。
その北側には、回遊式庭園「春秋園」が付随し、今なお四季折々の美しい景色を見ることができます。

また、千村家の菩提寺である東禅寺には、千村家歴代当主の墓石が林立し、
千村家の権威と格式の高さがうかがえます。』上屋敷平面図も記してある。

②★下屋敷跡の「木曽千村歴史館(春秋園)」 可児市久々利1644-1
歴史館前に案内板「木曽千村歴史館、源木曽義仲後裔之地」があり、
記載内容は次の通り。「久々利旗本領鳥瞰図」もある。

『・木曽・千村家について
清和源氏源(木曽)義仲6代の孫、木曽家村信州木曽を領す。
家村5男、家重が上野国千村郷を領し、以後千村と称す。

家重より12代千村政直の子、良重(久々利初代)慶長5年関ケ原の役、
徳川家康の命により、木曽谷の平定と岩村苗木城を攻略。その論賞により、
美濃可児郡(久々利・大森・比衣・中切・綱木・小和沢・宿・伊岐津志)、

土岐郡(大湫・田高戸・深沢・一日市場・次月)、恵那郡{正家・辻原・千旦林・駒場・茄子川・落合)を給され、
又信州一万石の代官(大河・原・鹿塩・加々須・南山・中坪・野口・八手・清内路・小川・上穂・小野)11ケ村、

遠州舟明村榑木山支配、遠州4ケ村代官職共幕府から命ぜられ、
美濃国久々利に館を、信州飯田荒町に陣屋をもうけ役務を司どった。

・元和3年、徳川家康は木曽を尾張藩に附属、千村家も尾張家中となり幕府に対して陪臣となるが、
伊那代官等は依然として幕府から命ぜられ、尾張藩からは名古屋に、幕府からは江戸に屋敷を拝領。

家督相続や将軍家の慶仏には諸侯同様江戸城へ伺候、将軍に挨拶するという特別な扱いで、
尾張藩では城代格に、幕府にあっては旗本外様大名列、柳の間詰で、
公儀の千村家に対する待遇は10万石の格式で参勤交代の義務を負わされていた。

幕藩両属という特殊な立場で、代々千村平右衛門を襲名し、慶長から明治維新まで12代続いた。
維新後、千村から旧姓木曽に復した。』

・その日は休館であったが、入り口で声を掛けたら、「春秋園」には入って良いと了解を得た。
下屋敷と春秋園は道路で南北に分断され、北側に鶴池、南側に亀池がある。
 
鶴池のある庭は、雑草を刈り、きれいにしてあったが、雑然とした感じであった。
だが、池を中心にした池泉回遊式庭園は、素晴らしい庭であった。石組や庭木の配置が素晴らしい。




古びた東屋も風景に溶け込んでいた。もう少し整備すれば、名園となる。
南側の亀池周辺の庭は、こじんまりし、中心の池の水は空で残念だった。

➂★千村氏菩提寺 東禅寺 可児市久々利1655
春秋園(鶴池)の北側、山際に寺がある。
寺の入口は境内西側にあり、奥に本堂や美しい海鼠塀が見える。


新緑に本堂や塀が溶け込んで、美しい風景になっている。


「千村家の墓所」への参道は、海鼠塀の手前にある小路である。


道路沿いに案内板があり、次のように記してある。
『市指定重要文化財(史跡) 千村家の墓所

千村家の墓所は東禅寺の境内の一画にあり、
一代良重から第一一代仲展までの歴代当主とその一族の墓石が並んでいる。

久々利千村家の初代良重の墓は廟に納められており、
墓碑によると、天保十五年(一八四四)に千村仲冬が新たに建てたとある。

以下、二代から五代までは廟の西側に、六代(八代のみ廟の東側)からは廟の裏側に並んでいる。
大きなものは高さ三メートルを超す立派なものもあり、千村家の格式の高さを感じさせる。

千村家は江戸時代に幕府代官と尾張藩家臣という二つの立場を有し、久々利の地に屋敷を構え、
東禅寺を菩提寺とした。
東禅寺は、慶長十六年(一六一一)に縁国である下総国から藍外政宗を迎え、梁南禅棟が開山したお寺である。

(「当主名・生没年・法名」が、初代から十一代まで記されている。
・・・1良重・2重長・3基寛・4仲興・5仲成・6政成・7政武・8頼久・9仲雄・10仲泰・11仲展) 』

海鼠塀沿いに奥に進むと小さな門があり、そこが墓所の入口である。
手前に小さな標柱「千村家の墓所」がある。


門を潜ると左側に、一段高くなった千村家の墓所がある。
当主とその一族の墓碑が林立しており、壮観である。合掌




初代良重公の木造の廟は、墓所の奥の方、右手にある。
廟は初代のみである。扉は閉まっていた。合掌


「二代重長公」の墓碑は立派な剣碑だ。(三代以降も剣碑)合掌 


右側「三代基寛公」、左側「四代仲興公」の墓碑も立派だ。合掌


左端が「五代仲成公」の墓碑。合掌 


奥に並ぶ墓碑は、左から順に「七代政武公」「十一代仲展公」「六代政成公」「十代仲泰公」。合掌


「八代頼久公」の墓碑は初代良重公廟の前。合掌 


「九代仲雄公」の墓碑。合掌 


墓所はきれいに整備され、当主の墓碑には当主名が刻まれた献花台が置かれている。
今まで訪れたなかでも上位に位置する素晴らしい墓所であった。

以上  


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2017年05月21日

<岐阜県可児市>ゆかりの武将 その2「徳野藩藩主 平岡氏」他 (武将のお墓参り20)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>

「岐阜県可児市」ゆかりの武将 その2 (2017年5月訪問)
①禅台寺 可児市下恵土2838 ★徳野藩初代藩主「平岡頼勝(石見守)公」墓所
②専養寺 可児市兼山699   ★徳野藩二代藩主「平岡頼資(石見守)公」墓所
➂浄音寺 可児市兼山698、専養寺の左隣 ★烏峰城主「斎藤大納言正義公」墓所

★①禅台寺
「平岡頼勝公」は、小早川秀秋公に仕え、関ケ原の戦いでは秀秋公に西軍から東軍に寝返るように勧め、
東軍勝利の陰の立役者として有名である。その功績により、美濃徳野藩の初代藩主となったとか。

寺の門や本堂などの建物は新しい。調べた限りでは墓所が禅台寺にある。
残念ながら寺や頼勝公に関する案内板はなかった。


「平岡頼勝公」の墓所は、境内の左方にある墓地の奥にあるとにらんで向かった。
墓地に入ると通路があり、少し進むとお地蔵さんが立っており、さらに奥へ進む。


すると、一般の墓と区切られ、上の方に向かう道がある。


坂を上がった所にも墓石が並んでいる。その右端が「平岡頼勝公」の墓所であった。


玉垣の上に小さな五輪塔が立っており、「前石州太守 心月宗安大居士」と刻んであった。合掌
墓の周囲にも案内となるものはない。




★②専養寺
道路沿いに「日蓮宗 福光山専義寺」と刻まれた石柱が立つ。


その右方に「福光山専義寺(日蓮宗)」の案内板があり、
徳野藩二代「平岡頼資公」に関する部分を抜粋する。

『当寺の墓地には、小早川秀秋の家老で関ケ原合戦の功により、
美濃徳野(可児市)一万石に封ぜられた平岡石見守頼勝の子二代藩主、頼資の
「承応二(一六五三)年正月八日石州隆光院殿一覚日 詮大居士」銘の墓石がある。』

境内に入るとすぐ左側が墓地になっている。
参道を進むと山門があり、門の左側(墓地の一番奥)に「平岡頼資公」の墓石があった。


立派な墓石だ。その右側に石柱があり、「第二代徳野藩主 平岡頼資公墓」と刻まれている。合掌


★➂浄音寺
寺の左端、道路沿いに案内板「海潮山浄音寺(浄土宗)」があり、次のように書いてある。

『天文六(一五三七)年、近衛関白稙家(たねいえ)公のご落胤で、ときの美濃国の覇者、
斎藤道三の養子、斎藤大納言藤原正義公は、木曽川の舟運と東山道を押さえるため、
当地に烏峰城を築いた。

浄土宗に深く帰依していた正義公は、三年後の天文九(一五四O)年、
とりあえず烏峰城の裏登城口のあった前兼山町役場裏の傾斜地に草庵を設け、
近衛関白家の帰依篤い京都知恩院の高僧智安上人を開山に迎えた。

天文十三(一五四四)年に至って伽藍ことごとく完成、寺号を海潮山浄音寺とした。
その後、この地が陰湿な土地であっため、元亀二(一五七一)年現在の地に本堂が再建された。
以下省略

市指定重要文化財
斎藤大納言正義公画像 1幅 当寺の開基、正義公等身大の画像で、
着衣の鎧の様式から生前に描かれたことはほぼ間違いないといわれる貴重な寺宝であり、
当時の禅宗の名僧、明淑和尚の賛が書かれている。

その外、斎藤大納言正義公の遺品といわれる哀甲(きごみ)、正義公の五輪塔、
烏峰城の裏城戸門を移築したと伝えられる山門、幡隆上人の自画像と南無阿弥陀仏の
名号軸等貴重な文化遺産が数多く残されている。』

道路沿いに烏峰城の裏城戸門を移築したと伝えられる山門がある。
なお、烏峰城は、後に森氏居城となり、兼山城、次に(美濃)金山城と名を変える。


山門を入った右側に五輪塔が立っている。
墓石周りに案内となるものはないが、烏峰城主「斎藤大納言正義公」の墓である。合掌




正義公の画像等を見たいと思い、庫裏のチャイムを鳴らすもご不在で、誠に残念だった。
正義公画像の模写が岐阜城天守閣に展示してあり、本物を見たかった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:19Comments(0)武将のお墓参り

2017年05月20日

<岐阜県可児市>ゆかりの武将 その1 「美濃金山城主 森家廟所」 (武将のお墓参り19)

<美濃国ゆかりの武将>

「岐阜県可児市ゆかりの武将 その1」は、美濃金山城主「森家」である。
①可成寺 可児市兼山596
森可行公、可成公、長可公、可隆公、蘭丸(長定)公、坊丸(長隆)公、力丸(長氏)公の廟所

②真禅寺 可児市西帷子488-1
森武蔵守長可公墓所 

2017年5月訪問
★①可成寺
寺は、山麓にあり、高い石垣と白い塀が印象的である。
入口左右に石柱が立ち、右側に「森可成公菩提寺」、左側に「大龍山可成禅寺」と刻まれている。


階段を登ると山門があり、右前の石柱に「森三左衛門可成 武蔵守長可 公廟所」と刻まれている。


石柱脇の案内板に次のように記されている。
『織田信長の宿将として数々の武勲をたて、元亀二(一五七一)年に宇佐山(大津市)で戦死した
金山城主森三左衛門尉可成公菩提のため、その子二代城主長可公が父の名「可成」をそのまま寺号とし、
栄巌和尚を迎えて金山城東の寺が峰に創建された。

当寺開基の長可公は、信長・秀吉二君に仕え、鬼武蔵の異名をとったほどの勇将だったが、
天正一二(一五八四)年、長久手において戦死した。その墓石が父君可成公の墓石と合祀されている。

その後を継いだ三代城主忠政公が、慶長五(一六00)年に川中島(長野県)へ転封されたとき、
寺は現在地に移転され今に至っている。

また、昭和四二(一九六七)年には、蘭丸・坊丸・力丸三公の供養塔が八百津町中野より
当寺に移され安置されている。

当寺は、森家の菩提寺であるため、堂塔のほとんどが江戸時代に森一族の赤穂・三日月・新見等の
大名家から寄進されたものであり、明治までは三家から扶持が与えられていた。

また、天和三(一六八三)年に長可公の百年遠忌法要が営まれて以来、
可成・長可・蘭丸・坊丸・力丸諸公の遠年忌が執り行われてきている。』

山門を潜り、左方の本堂入口でチャイムを鳴らし、お寺の方にお話を伺った。
「寺は、もとは東方の金山城近くにあったが、こちらに移転した。
可成公ら森家の御位牌があるのでお参りしていってほしい。森家廟所は裏山の墓地奥にある。」
御位牌の前でお線香をあげ、合掌。

廟所へは、本堂右方の小さな門を潜って奥へ進む。


突き当りに「森家墓地」の小さな看板があり、左方の緩い階段を登る。


木立の中の墓地に入ると、最奥に石垣と白い塀が見える。


その石垣と塀で囲われた区画が森家廟所である。


十段くらいの階段を登った所に五輪塔が7基並んでいる。


その左方に案内板「森家廟所案内」があり、墓主がわかるようになっていてありがたい。


正面の左から順に、「二代城主 可成二男 森武蔵守長可」、「金山城初代城主 森三左衛門可成」。合掌


次に、左「可成の父 可行」、右「可成の長男 可隆」。合掌


右側には左から順に「森坊丸 可成4男」、「森蘭丸 可成3男」、「森力丸 可成5男」が並ぶ。合掌

本能寺で亡くなった三兄弟は、まだ16~18歳だったのだ。

★②真禅寺
寺は山中にあり、背後の山が美しい。


山門を潜ると、左右に石柱が立ち、右は「本尊聖観世音」、左は「開山行基菩薩」と刻まれている。正面が本堂だ。


本堂の左端脇に小路があり、「森武蔵守墓所入口」の石柱がある。


奥へ進むと、道は突き当りで右に折れており、道なりに坂道を進む。


坂道を登るとご住職方の墓地が見えてくる。


その手前に右の山に向かう階段があるので、そちらに進む。


階段の先は、舗装されていない。樹木が払われ道らしき所を登る。カーブしている。


その先の森の中に墓所が見えてくる。ブロック塀で囲われた一画が、森武蔵守長可公の墓所だった。




中央に宝篋印塔が1基、周りに五輪塔の一部がたくさん並んでいた。合掌




この寺には、案内となるものが何もなく残念だった。

以上
  


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2017年03月28日

<岐阜城主 織田信孝公墓所>知多郡美浜町 大御堂寺 (武将のお墓参り18)

2017年3月<岐阜城主のお墓参り>
織田信孝公と源義朝公と、二人の有名武将が眠る大御堂寺(通称:野間大坊)。
そして、信孝公自刃の地「安養院」を訪ねた。

face02①「大御堂寺(通称:野間大坊)」 愛知県知多郡美浜町野間東畠50 ☎0569-87-0050
◆寺の入口に石柱が立ち「新四国第五十一番霊場尾州 鶴林山野間大坊」と刻まれている。


◆中央駐車場に大きな「野間大坊案内図」があり、諸堂などの配置がわかる。
境内は自由参拝なのでありがたい。


◆寺のしおりに沿革も載っており、概略は次の通り。
『天武天皇(673~86)の時代に始まり、聖武天皇(723~49)の時に行基菩薩が中興。
後に弘法大師が諸国行脚の際留錫された。

承暦年間(1077~81)に白河天皇の勅願寺として、大御堂寺と称せられた。
後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と
不動明王・毘沙門天を奉安され、七堂伽藍を造営。そして、秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。』

◆まず本堂にお参りする。合掌。現在の建物は、3度の火災等にあった後、
宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建されたもので、登録有形文化財である。


◆本堂の右側(東側)に石垣で囲まれた「源義朝公御廟所」があり、
外側に立つ石柱に「贈内大臣正二位源義朝公御廟所」と刻んである。


◆御廟所の入口は小さな門だ。


◆岐阜城主「織田信孝公」の墓碑は、その義朝公御廟所の一角にある。
御廟所内の右方端に信孝公の墓碑が立つ。傷んで傾いた五輪塔だった。合掌。


墓碑の前に案内板があり、次のように簡単に書いてあった。これだけ?って感じ。
『織田信孝の墓 織田信孝は織田信長三男。本能寺の変で信長が討たれた後、
織田家の跡目争いで豊臣秀吉に敗れ、大御堂寺南ノ坊(現在の安養院)で自害する。』

◆源義朝公の墓碑は御廟所の中央にあり、立派な宝篋印塔であった。
周りに木太刀が奉納されており、墓碑の下の方は木太刀に埋もれている。合掌。


◆源義朝公御廟所の入口前に案内板があり、信孝公に比べて詳細に記載されている。
『源義朝公の墓所 源義朝とは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、平家を滅ぼした源義経の父である。

1160年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れた源義朝公は本拠地である関東へ落ち延びる途中、
この地野間を治める家臣の長田忠到・景到親子の元に身を寄せた。

ところが長田親子は裏切りの企てをする。義朝公へ「どうぞ朝湯へお入りください。」と勧め、
入浴中の裸の義朝公を風呂場で切り付け命を奪った。

武芸の達人であった義朝公は「無念。我に小太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん。」と言って絶命した。
後の世の人々が義朝公の菩提を弔うため、そのお墓にお花の代わりに木太刀をお供えする習わしとなる。
いつしか、願いを叶える武将源義朝として、人々が願いをしたためた木太刀をお墓にうずたかく供えるようになった。』

◆他に御廟所内には、「池禅尼の塚」がある。合掌。
池禅尼は、平清盛の継母であるが、源頼朝公の命を助けたお方である。


◆「鎌田政家公と妻の墓」もある。合掌。
政家公は源義朝公の腹心の家来。義朝公が長田親子に討たれる前日に、長田の息子の景到によって殺害された。
妻は夫政家の亡骸のそばで政家の短刀で喉を突いて自害。悲しい話だ。


◆本堂の左方に「平成26年度 野間小学校六年生児童」が制作した看板「野間ナビ」がある。
野間地区の歴史や灯台などの見所が載っている絵地図で、大変良くできている。


◆境内の見所として伏見桃山城の遺構である「客殿」がある。


客殿前の案内板に次のように書いてある。
『秀吉公の晩年の居城「伏見桃山城」の一部を寛永年間(1624~43)に移築されたもの。
愛知県重要文化財指定。「源義朝公の絵解き」はここで聞くことができる。(要予約、有料)』

「源義朝公の絵解き」とは、寺のしおりによると、
『義朝公は京都六波羅の合戦で平氏に敗れ、この野間の地に落ちのびてきました。

ここで家臣の長田忠到・景到親子により謀殺される様子や
その後のことを実にリアルな描写と共にわかり易くお話しいたします。

この絵の作者は江戸初期の幕府御用絵師狩野探幽です。
名古屋城初代城主・徳川義直公の命により描きあげられました。』
いつか予約をして絵解きを聞いてみたいものだ。

face02②「安養院」
織田信孝公自刃の間がある安養院は、大御堂寺の南約100mに位置し、
大御堂寺から歩いて5分もかからない。

◆寺の前にある石柱には「新四国第五十三番霊場 安養院 織田三七郎信孝卿旧跡地」と刻まれていた。


◆石柱の隣りに案内板があり、
『安養院沿革 当院は白河天皇勅建の大御堂寺一山の一院で南ノ坊と称し、江戸時代に安養院と改称。
明治になり。慈雲院、圓明院、龍松院を合併し現在に至る。

本尊は中心に阿弥陀如来、両脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊仏であり、この地で源義朝公と
共に無念の最後を遂げられた第一の郎党、鎌田政清の次政直が父の菩提を弔うための念持仏である。

降って天正十一年、織田信長公が三男、三七信孝公は、羽柴秀吉との跡目争いに破れ、
野間の地に敗走し当院にて自刃。遺恨のうちにその生涯を終えられた。』と書いてある。 

◆境内に入ってすぐの右側にも案内板がある。
そこに「復元した信孝自刃の間」「自刃に用いた短刀」
「血染の軸(腸をつかみ出し投げつけた軸)」と書かれてあり、拝見したいと思った。


そこで寺の方に拝観できないか尋ねたが、非公開との返事で残念。
しかし、掛け軸と短刀が写った古い写真を見せていただけた。

◆本堂前で合掌。本堂前には、たくさんの赤い「南無地蔵願王尊」の幟がはためいていた。


以上  


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2017年03月24日

<岐阜城主 織田信孝卿菩提所>亀山市関町 福蔵寺 (武将のお墓参り17)

2017年3月
<岐阜城主のお墓参り>
岐阜城主であった織田信孝公の首を葬ったと伝わる福蔵寺を参拝した。

★「織田信孝公」は、織田信長公の三男。
伊勢国の神戸氏の養子に入り、伊勢神戸城主(現在の鈴鹿市内)となる。
本能寺の変後には、山崎合戦で羽柴秀吉公らと明智勢と戦い勝利。

清州会議で織田家の跡目を狙うも、跡目は秀吉公の擁する三法師(後の秀信公)になってしまう。
そして「岐阜城主」となったが、柴田勝家公らと組んで秀吉公に対し挙兵。
しかし敗れ、尾張知多内海の大御堂寺(野間大坊)安養院で自害させられた。
墓碑はその大御堂寺境内や他にもある。

face02『福蔵寺』 三重県亀山市関町木崎417 
福蔵寺の入口は、古い町並みが残る旧東海道関宿の街道沿いにある。

◆石柱に「織田信孝卿菩提所 福蔵寺」と刻まれている。


◆石畳の参道を進むと、立派な山門がある。(境内東側にある裏門は、旧脇本陣萩屋の門である。)


◆山門の右側脇入口の所に「福蔵寺 織田信孝の 眠る寺  関宿かるた」と書かれた木札が掛かっていた。


◆山門を潜ると正面に本堂があり、まずお参りする。合掌。


本堂前に寺の案内板があり、次のように書いてあった。
『当山は、天台真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本 西教寺)に属します。
創建は天正十一年 織田信長卿三男信孝公の菩提寺として創建されました。以下略』

◆境内中央辺りに、屋根から下ろされた瓦と石造三重塔がある。



◆境内の左方、石造三重塔の後方に「織田信孝卿の墓碑」があった。
新しい五輪塔である。合掌。


五輪塔の前に「福蔵寺の創建と織田信孝公」の案内板があり、次のように書いてあった。
『織田信長の三男信孝公は本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、
神戸の住人旧臣大塚俄左衛門長政に命じこの寺の建立にかかりました。

しかし信孝公は羽柴(豊臣)秀吉との後継者を巡る争いに敗れ、天正十一年尾張の国
野間において自害させられましたので、長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。

この墓は墓石不詳のため(事由は不明)四百年忌を迎えた時、菩提を弔うため建立したものです。
本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。』

観光駐車場で出会った観光ボランティアさんから話を聞けた。(ありがとうございました。)
「信孝公墓碑は、2~3年前に地元の方々により五輪塔に建て替えられた。
それまでは自然石だった。信孝公の旧領地である伊勢神戸(現・鈴鹿市)の地は秀吉配下の領地と
なっていたため、家老大塚長政は妻の実家がある関宿に信孝公を葬ったそうだ。」

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:34Comments(0)武将のお墓参り

2017年03月18日

<織田信長公本廟所>京都「阿弥陀寺」 (武将のお墓参り16)

<岐阜城主のお墓参り>2017年3月
①京都市上京区 「阿弥陀寺」・・・織田信長公・信忠公本廟所
②京都市北区  「建勲神社」・・・祭神織田信長公

京都市には、武将のお墓が数多くある。
その中の「阿弥陀寺」の「織田信長公」たちの廟所を紹介したい。
そして、信長公を祀る「建勲神社」を紹介。

①★「阿弥陀寺」 京都市上京区今出川上ル鶴山町14
境内自由で、墓所も自由に参ることができた。

お寺の方にお話を聞きたかったし、織田信長公・信忠公の木像も拝観したかったが、
来客が次々と訪れたので諦めた。

通り沿いに高麗門が立ち、その南方に駐車場への入口がある。
無料駐車場があるのが、ありがたい。


門前に説明板があり、信長公との関係などが記載されていた。


お堂前でお参りをしてから、庫裏の前を奥へ進む。
「織田信長公本廟所➡」と書かれた小さな案内板が立っていた。


そこから高架廊下の下を潜って進むと、墓地の入口となる控えめな門がある。
門を潜って正面奥が、「織田信長公」を始め「本能寺の変」で亡くなった方々の廟所だ。



玉垣の上段に、「織田信長公」と「織田信忠公」の墓碑が並んで立っていた。
小ぶりの墓碑だった。合掌。


墓碑の裏には、追善供養の板が立っているが、「ぶっちゃけ寺」などのテレビ番組のものもあった。


左方には、「森蘭丸」「森坊丸」「森力丸」の五輪塔が、仲良く並んでいた。合掌。


機会があったら再訪して、お寺の方に信長公に関するお話を聞いてみたい。

②★「建勲神社」 京都市北区紫野北舟岡町49
前から一度お参りしたいと思っていた神社に、やっとでお参りすることができた。
明治天皇により「織田信長公」を祀るために創建された神社である。

小高い山である「船岡山」の上に社殿が立つ。
船岡山の東側の通り沿いに、木造の美しい大鳥居が立つ。


大鳥居の前に案内板があり、神社の由来などが記載されていた。
建勲神社の読み方は「たていさおじんじゃ」、通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれる。
などと書かれている。


鳥居を潜り、境内に入ってすぐの所に境内の案内板が立つ。
境内略図や社殿、末社「義照稲荷社及び命婦本宮」の案内が記載されていた。


長い階段を登りきると、拝殿などの美しい檜皮葺の社殿が見える。
拝殿前でお祈りをした。




本殿前には酒樽がきれいに積んであった。
また、本殿と周りの建物などがマッチして、美しい景観となっていた。



山上からは、京の町を見下ろせる。
京都の町は、信長公にお守りいただいているのだなと感じた。


以上
  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:26Comments(0)武将のお墓参り

2016年11月03日

<大徳寺総見院&本能寺&安土城跡>岐阜城主「織田信長」様ほか (武将のお墓参り15)

<岐阜城主のお墓参り>

「織田信長」様の墓碑や供養塔は、全国に二十カ所以上あるらしい。
岐阜城主として約十年間を過ごした岐阜にも墓所があって紹介済だが、
他も順次紹介していきたい。

face02★2016年11月2日
・「京都市北区紫野大徳寺町」にある臨済宗大徳寺派大本山「大徳寺」では、
四つの塔頭で「大徳寺塔中 秋の特別公開」が行われている。

その一つ総見院は、10月8日から11月30日(11月6日は拝観休止)に公開されており、
織田信長様たちの墓参をしてきた。
そして、本堂案内が毎時00分と30分に行われており、お話を聞くことができた。

・総見院は、大徳寺の二十二の塔頭寺院の一つであり、織田信長様の菩提寺として有名である。
正門の前には、「信長公廟所」と刻まれた石柱が建っている。



当院は、豊臣秀吉様が天正十一年(1583)信長様の一周忌に追善のため建立した。
明治時代の廃仏毀釈で多くの堂塔や宝物が灰燼と化すが、大正時代になって再興されたのだ。
現在は、創建当時の建造物として正門や土塀、鐘楼が残る。

また、境内には、茶室や秀吉様が植えた侘助椿(わびすけ)、加藤清正様が朝鮮から持ち帰った朝鮮石で
作った井戸などの見所がある。

・木造「織田信長公坐像」は、秀吉様が仏師に二体彫らせた。
仏師は生前の信長様に会ったことのある人で、秀吉が完成後の坐像を見て「よし」と言ったそうだ。
そうすると、等身大の坐像のお姿は、信長様の姿に相当似ていると思われる。

一体は、葬儀の際に信長様の遺体の代わりに燃やされ、本能寺の灰と共に葬られたという。
香木で造られており、燃やされた時は良い匂いが漂ったそうだ。

残りの一体は、今も総見院に安置され、それを拝見できたのだ。
坐像は、明治の廃仏毀釈の際に大徳寺本山に移されて難を逃れていたが、
昭和三十六年(1961)に総見院に戻すことになった。
その時には、立派な輿(こし)を作って坐像を載せて移したそうだ。

なお、岐阜城天守閣の3階には、この坐像の複製品が展示されている。
坐像の由来を思って見ると、見る目も思いも違ってくる。

・境内左方にある墓地の最奥に「織田信長公一族墓所」がある。
墓主がわかるように案内板があってありがたい。
墓所はコの字型になっており、正面の上段に五輪塔が七基並んでいる。


左から順に、「織田秀雄(信雄嫡男)」様、「織田信雄(信長二男)」様、「織田信長」様、
「織田信忠(信長嫡男)」様、「羽柴秀勝(信長四男)」様、
「織田信高(信長七男)」様、「織田信好(信長十男)」様の墓碑である。



正面の右端には、「徳姫(信長息女)」様の五輪塔がある。
左方には、正室「帰蝶(濃姫)」様の五輪塔、側室「お鍋の方」の自然石の墓碑が並ぶ。合掌。



face02★2016年7月
・「京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町532」の法華宗大本山「本能寺」を訪れ、
本堂の右後方にある「織田信長」様廟所で墓参をした。


・廟所前に「信長公廟」の案内板があり、墓所と定められた経緯などが記してある。
奥に立派な宝塔型の墓碑が立っていた。合掌。



face02★2015年12月
・「滋賀県近江八幡市安土町下豊浦」の「安土城跡」を訪れ、
二の丸跡の「織田信長」様や大和宇陀松山藩主「織田信雄」様四代の墓参をした。

・安土城跡は山城だった。山全体が城塞となっており、麓から広い石階段が天守台に続いていた。
建物は無いが、石垣が良く残されており、見応え十分だ。
麓に城跡の案内板があり、地図で廟所の位置もわかる。


◆「織田信長」様の廟所は、本丸の手前にあった。
本丸へ続く通路の左側に石階段がある。


石階段を登りると、「織田信長公本廟」と刻まれた小さな石柱がある。


奥へ進むと、木立の中に石垣で囲まれた広い廟所がある。石塀の正面に門があり、そこからは入れない。



廟所の中央奥に石垣が組まれ、上に墓石があった。遠くから合掌。



その後、天守台に登り廟所を見下ろすと、廟所の様子がよくわかった。



◆大和宇陀松山藩主である「織田信雄公四代供養塔」は、二の丸跡の下方に位置する。
本丸へ続く通路の左側に低い石階段があり、上った奥の方にひっそりと四基の五輪塔が並んでいた。



その脇に、墓主の名前と法名などを記した案内板がある。
右から順に初代「織田信雄」様、四代「織田信武」様、三代「織田長頼」様、二代「織田高長」様である。合掌。



今回は以上  


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2016年10月21日

名古屋市千種区「平和公園」&「相應寺」 (武将のお墓参り14)

face03<平和公園>
名古屋市千種区の「平和公園」にある武将達のお墓を紹介する。
なお、平和公園は山の斜面に造成されているので、
墓碑巡りには坂道を登ったり下ったりしないといけない。歩いて回るには覚悟が必要だ。
(駐車場が所々にあるので、車だったら目的地近くに停めると良い。)

公園内には著名人のお墓がいくつもあり、おおまかな案内図があった。


①★尾張藩七代藩主「徳川宗春様」墓所
平和公園内の中央やや東寄りに「建中寺墓地」があるが、
途中に「徳川宗春墓碑→」の案内があるのでわかりやすい。


「建中寺墓地」石柱の右方にある僧侶墓碑群の前に、徳川宗春様の立派な墓碑が建っている。合掌。



墓碑の右横に、宗春様と墓碑についての簡単な説明があった。


②★徳川家康様の第八男「松平仙千代様」墓所
平和公園内の中央やや西に「高岳院霊苑」がある。
霊苑の入口脇に「徳川家康公 第八男 仙千代君墓所」と刻まれた石柱があり、わかりやすい。



階段を登り、真っすぐ行った突き当りに「松平仙千代様」墓所がある。


石柱で囲まれた中に五輪塔の墓碑が建つ。風化か戦火のため、劣化が激しい。
墓碑前に「仙千代君」と刻まれた小さな石柱が建つ。合掌。



仙千代様は、母が「お亀の方」で、尾張藩初代藩主徳川義直様と同母の実兄にあたる。
6歳のときに大坂で早逝されたため、菩提のために高岳院が建立され葬らた。

③★犬山城主「平岩親吉様」墓所
平和公園内の中央南西あたりに「平田院墓所」がある。
残念ながら、「平岩親吉様」墓碑の案内は何もない。


墓所に入り、最奥の中央あたりに「平岩親吉様」墓碑が建つ。
両脇に石灯籠が建ち、墓碑には「平田院殿・・・」と刻まれている。合掌。


平岩親吉様は、尾張藩初代藩主「徳川義直」様の守役を勤めた方である。
義直様は、4歳で甲府城主、11歳で清州城主となる。
その間、義直様は駿府で父母と共に暮らしていたので、犬山城主の平岩親吉様が清州で政務をとっていた。

④★織田信長様の守役「平手政秀様」墓所
平和公園内の南西隅に「政秀寺霊地」がある。
大きな宝篋印塔の脇にある階段を登ると、丘の上に出る。


そこをさらに真っすぐに進むと、平手政秀様の墓所にたどり着く。


石塀で囲まれた中に墓碑が建つ。合掌。


政秀寺霊地には、平手政秀様墓所の案内がなくて残念だった。
霊地は丘の斜面にあり、麓には立派な墓碑がいくつも建っていた。
そこかと探すも見つからず、広い霊地を探し回った。
霊地の最も奥の方で、やっとのことで見つけることができた。

平手政秀様は織田信秀様の家臣で、織田信長様の守役を仰せつかっていた。
信秀様の死後、信長様を諫めて自刃。信長様は政秀様の忠誠を惜しみ、政秀寺を建てたと伝わる。

face02<相応寺>
⑤★徳川義直様の生母「お亀の方(相応院)」墓所
「相応寺」は、名古屋市千種区城山町1-47の静かな住宅地にある。
寺の入口は敷地北側にあり、門前の石柱に「阿弥陀如来四十八願所第二番札所 相應寺」と刻まれている。


門を二つ潜り、本堂に向かう境内は紅葉の名所で、楓がたくさん植えてある。



階段を登りきると本堂があり、その右端前に石柱で囲まれた「お亀の方(相応院)」の墓所がある。
上部が折れ、補修された墓碑が建つ。合掌。



「お亀の方(相応院)」は、徳川家康様の側室で、尾張藩初代藩主義直様の生母である。
義直様は、お亀の方の没後、菩提を弔うため相応院を創建された。
寺の歴史等は、現地には簡単な案内があるのみで物足りないが、
相応寺ホームページに詳しく載っているので、訪問する前に読んでおくとよいと思う。

以上
  


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2016年10月17日

尾張藩附家老・美濃今尾藩「竹腰家」墓所 (武将のお墓参り13)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
尾張藩附家老竹腰氏は、岐阜県美濃地方にもゆかりのある武将であり、
岐阜県と愛知県にあるお墓をご紹介します。

①★尾張藩附家老(美濃今尾藩五代)「竹腰正武様墓所」
「岐阜県関市志津野665」 正武寺は、通りから奥に入った静かな山麓にあった。

通り沿いに小さな寺の案内がある。そこから狭い道を奥に入って行くと、
T字路に「永平寺直末 禅・曹洞宗 正武寺」と記した看板がある。


そこから左に入ると、小さな山門があり、左の道を進むと境内だ。
本堂でお参りをしてから、本堂左後ろにある墓地に参る。

墓地は、緩やかな坂になっている。
真ん中が参道で、両脇に墓が並び、奥の突き当り上段が「竹腰正武様の墓所」である。
墓地や寺を見下ろす位置にある。



墓所右側に「関市指定遺跡 竹腰正武候本廟」と記された案内柱があるが、
なんの説明もなく残念だ。


墓所敷地に入ってすぐの左右に、2対の石灯籠がある。


そこから石階段を少し上ったところが、石柱で四角く囲われた廟所だ。


石柱囲いの正面が鳥居風で高く、中央が唐破風で下に梅鉢紋が付いている。
このタイプは珍しい。中央奥に立派な五輪塔が立っている。合掌。



尾張藩附家老竹腰氏は、美濃今尾藩三万石を領していたが、
飛び地で志津野村(現関市)等に領地を有していた。
五代正武様は、領地である志津野を見廻り、菖蒲谷を気に入られ、自らの菩提寺を建てたと伝わる。

正武様は、尾張藩家老「石河章長」様の子であり、竹腰家へ養子に入っている。
私考であるが、関市内には石河家菩提寺の蓮華寺があり、
正武様は領地見廻りのついでに父らの墓参に訪れていたかもしれない。

②★尾張藩附家老(美濃今尾藩)「竹腰家墓所」
愛知県名古屋市千種区の「平和公園」は、昭和22年から昭和32年頃にかけて、
名古屋市内に点在した各宗派280の寺院のお墓、約18万8千基を寺院別に区画して移した所だ。


平和公園の中央東寄りにある「相應寺墓域」に、竹腰家の立派な墓碑が5基並んでいる。
しかし、案内となるものは何もなく残念だ。



右から順に、「竹腰正辰」様(初代正信様の三男、四代正映様の父)、「七代竹腰睦群」様


真ん中の一番大きい「初代竹腰正信」様の墓碑の前には、石板があり文字が刻んである。



次が「二代竹腰正晴」様、「三代竹腰友正」様である。


墓碑の裏側には墓主の名前などが刻んであり、どなたのお墓かすぐにわかる。合掌。


相應寺は、尾張藩初代藩主徳川義直公が、生母「お亀の方(相応院)」の菩提のため創建。
諸説あるが、お亀の方が徳川家康様の側室になる前に結婚していたのが竹腰正時様であり、
その間に設けた子が竹腰家初代正信様である。
その縁からか、相應寺は竹腰家の菩提寺となったと思われる。

以上
  


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2016年10月01日

<岐阜市の崇福寺>岐阜城主「織田信長様&信忠様」&「斎藤利匡様」墓所 (武将のお墓参り12)

2016年10月1日
<岐阜城主のお墓参り>

★織田信長公霊廟所 崇福寺
「岐阜市長良福光2403-1」にある岐阜城主織田家の菩提寺「崇福寺」を訪れた。
午前中には、岐阜信長まつり「織田信長公追悼式」が営まれた。

本堂裏に「織田信長父子廟&位牌堂」があり、「斎藤利匡」様の墓所もある。
全国にたくさんある「織田信長」様と「織田信忠」様の墓所の一つが、ここにあるのだ。


諸説あるが、「崇福寺のしおり」等によると、
「崇福寺は、美濃国守護代斎藤妙椿の家系の斎藤利匡が永正8年(1511)に再興された。
永禄10年(1567)信長が岐阜に入ったとき、
若くして亡くなった側室吉乃(信忠の母)の菩提所として、江南市「久昌寺」から位牌を移された。

当時の崇福寺住職が、信長の家臣鳴海助右衛門の援助を得て、織田家菩提所指定に尽力された。
本能寺の変後、信長の側室小倉氏「おなべ(お鍋)の方」が、
信長の遺品を当寺に葬り、信長・信忠父子の位牌所に指定された。」とある。

通り沿いの左右に石柱があり、左側は「織田信長公霊廟所」と刻まれている。


そこから参道を進むと山門があり、織田家「木瓜紋」が入った幕が掛かっていた。


山門を潜り、突き当りが本堂である。


受付の方に挨拶して、本堂内部を拝観。テープで由緒や寺宝などの説明が流れる。
信長禁制書、清州城鯱瓦、土岐頼高筆の鷹図などの寺宝や、
関ケ原の前哨戦で落城した岐阜城の床を使った血天井を見させていただいた。

本堂の左前に、本堂前に入る潜り戸がある。入ると、左側に素敵な枯山水庭園がある。



庭園を見ながら奥に進むと、自然に右手に折れていく。
小路の先に小さな門があり、中が廟所である。門の扉には、桔梗紋が彫り抜いてある。



門を潜り、突き当りが「織田信長父子廟」である。
位牌形の墓碑1基に、信長様と信忠様二人の法名が左右に並べて刻まれている。合掌。




墓碑の右側に格子塀に囲まれた位牌堂(小堂)が建っており、彩色が施されていて美しい。合掌。



位牌堂の前には、読経堂が建つ。その奥に、「開基斎藤利匡墓」と記された案内板がある。


その先に、宝篋印塔7基がひっそりと立ち並ぶ。
「斎藤利匡(としただ)」様や一族の方々、「稲葉一鉄の父通貞」様のお墓である。合掌。



なお、当寺は「稲葉一鉄」様が修行された寺でもあり、寄贈された梵鐘があった。



山門の上に、新しいが珍しい「あうんの龍」の飾り瓦があるので必見だ。
徳川家にゆかりがあり、本堂や山門などの屋根瓦に葵紋が入っている。



当寺は境内の各所に案内板があり、大変ありがたかった。(感謝)

以上  


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2016年09月17日

「源頼政」様&尾張藩家老「石河家歴代墓所」 (武将のお墓参り11)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
岐阜県関市植野の「蓮華寺」で、「源頼政様首塚」と「尾張藩家老石河(いしこ)家歴代墓所」にお参りした。



★寺伝等によると、「頼政は治承四年(1180)以仁王に従って平清盛と宇治平等院で戦い、敗死した。
頼政の首は部下の渡辺省によって、頼政の伯父にあたる美濃山県郡の山県国直の領地、植野山に葬られた。

国直の妹、即ち頼政の伯母がその地に一寺を建立。これが、蓮華寺である。
首塚と言われているものは、当寺の横の山にある。

後になり荒廃していた蓮華寺は、寛文6年(1666)石河氏の菩提寺として再興され、
石河氏歴代領主他の墓碑が立つ。
石河氏二代正光は、寛文六年(1666)に頼政の顕彰碑を建立。

植野は石河氏の領地ではあったが、本拠は駒塚(現羽島市)であり、なぜ当寺を選んだのかは不明。」

★「源頼政様首塚」
通り沿いにある石柱に「源頼政公史蹟 石河家菩提所 金光山蓮華寺」と刻まれている。


そこから参道を進むと、寺の建物が見えてくる。境内左端が首塚の参道で、石灯篭が立ち並んでいる。


10m程進むと「源頼政古蹟 蓮華寺」と刻まれた石柱がある。


そして、奥の階段を上ると亀趺碑がある。墓碑ではなく、二代石河正光様が建てた顕彰碑である。




亀趺碑の前方に山へ続く薄暗い坂道がある。その坂を少し登って行くと、森の中の開けたところに出る。



奥の方に石灯篭と「源頼政首塚」と刻まれた石碑があり、その奥に五輪塔の墓碑がある。合掌。



ここも、塚の由来などの案内はなく残念だ。
なお、墓所に着くまでに、蜘蛛の巣があって引っかかり、蚊に刺された。お参りされる方は、注意されたし。

「源頼政」様であるが、
平安時代末期の武将で、京都で天皇らを悩ませた怪物ヌエを退治したことで高名な方である。
保元平治の乱では勝者方に付き、源氏でありながら平清盛様の下で破格の出世をした。
平治の乱で後白川法皇は、清盛様の推した二条天皇派に敗れ、幽閉された。

法皇の第三皇子「以仁王」は、次期天皇の望みを絶たれ、打倒平氏に立ち上がった。
頼政様は、以仁王に加勢することにした。ところが、敵方に計画途中で露見し、
園城寺(滋賀県)に先に逃れていた以仁王と合流。

奈良へ向かう途中、宇治平等院で休息するが、敵方に急襲された。
頼政様は以仁王を逃がすべく平等院に籠り抵抗するも、自害。享年77であった。

墓所は、終焉の地である宇治平等院にあるが、
他にも関市の蓮華寺の首塚、千葉県印西市の結縁寺の頼政塚、茨城県古河市の頼政神社の首塚伝説、
兵庫県西脇市の長明寺の頼政墓がある。

★「尾張藩家老石河(いしこ)家歴代墓所」
山門前を右方向に進むと、山際に石河氏の歴代領主や一族の墓が立ち並んでいる。
墓所左端に標柱があり、「関市指定重要文化財 石河家菩提所」と記されている。


大小さまざまな墓石101基や灯籠が並ぶ様は壮観である。




墓石の形は、五輪塔の他にもいろいろな種類があって、大変興味深い。合掌。
墓主の案内はなく、どれがどなたのお墓なのかわからず残念だ。
石河氏についての案内もない。




「石河氏」であるが、清和源氏頼親の後裔とされる。信長様、秀吉様、家康様に仕え、
慶長15年(1610)に1万石が与えられ、慶長17年(1612)に尾張藩主徳川義直様の附家老、
その後、名古屋城代を経て尾張藩家老を歴任。

なお、享保11年(1726)に石河氏が駒塚(現岐阜県羽島市竹鼻町駒塚)に居を構えた。
そこは傳法寺の向かいで、「史跡 石河邸跡」碑があり、

「駒塚石河氏は、慶長17年に尾張藩附属となり美濃国、摂津国に一万石を領していた。
寛文9年に駒塚村を在所とすることを命じられ、一万八千平方メートルの宅地に壮大な館舎を営んでいた。」
と記されている。現在、残念ながら遺構らしきものはない。

歴代は、初代光忠、二代正光、三代章長、四代正章、五代忠善、六代光當(みつなお)、
七代光籌(みつかず)、八代光豊、九代光美、十代光晃(明治維新を迎える)。
PS 初代光忠様の墓所は京都にあり、蓮華寺にお墓があるか否かは調べられなかった。

以上  


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2016年07月30日

岐阜城主「斎藤利永」様&美濃国守護「土岐頼益」様 (武将のお墓参り10)

平成27年(2015)11月
<岐阜城主のお墓参り>

face02岐阜県各務原市鵜沼 「大安寺」
◆<稲葉山城主(金華山城主)「斎藤帯刀左衛門尉利永(越前守)」様>
「斎藤利永」様は、美濃国守護代を父宗円(利明)様から継いだ。
そして、美濃国守護「土岐持益」様の執権として実権を掌握し、権勢を揮った方である。

稲葉山城は、前城主「二階堂行藤」様が去った後、城主不在となっていたが、
約100年後の応永の頃になり、利永様が修築し居城とした。

その後、文安二年(1445)川手城(革手城)の持益様の後見のため、近くに加納城を築いて移った。
(旧加納城は、利永様が最初に築いたと伝わる。)

利永様は、寛政元年/長禄四年(1460)病没。和巌大功崇輔居士。
墓所は、中山道鵜沼宿の北方に位置する「大安寺」にある。

◆<美濃国守護「土岐頼益」様>
持益様の父である美濃国守護「土岐頼益」様が、応永二年に「大安寺」を創建した。
頼益様が斎藤氏を守護代に抜擢したと伝わる。

頼益様は、将軍足利義満様・義持様から信頼され、評定衆に列し、
応永十年(1403)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、室町幕府七頭の一家となり、
同年に侍所頭人、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた方である。
応永二一年(1414)没、「大安寺」に眠る。

◆<大安寺>
寺の入口は境内の南東にあるが、墓所の入口はその左方にある。案内表示はない。
下から見上げると、小さな森になっている所が墓所である。


少し荒れた墓所参道を登ると、墓所前の石段にたどり着く。
石段を上がった所は平らになり、周りは樹木に囲まれている。
そこは、高台になっており眺めが良い。


平地の奥に墓所があり、3段の石垣の上に土岐氏の桔梗紋が彫られた石塀がある。
その中に宝篋印塔が二つ並んでいるが、案内表示はない。
左側の方が大きいので主家である「土岐頼益」様で、右側が「斎藤利永」様であろう。
木陰の中で二人仲良く並んでいた。合掌。


寺の参道を入ってすぐに「落慶香語」の石碑があり、建物の変遷等が書いてある。



寺の参道は、きれいに整備してあり、山門へと続く。
境内の左方奥が墓地になっており、その墓地からも利永様・頼益様の墓所に行けるが、わかりずらい。


face02<岐阜市長森岩戸「慈眼寺」&「巌窟観世音菩薩」>
◆斎藤利永様は、金華山麓の厚見郡岩戸(現・岐阜市長森岩戸)に観音寺を建立している。
寺は慶長5年の兵火で焼失、元和年中に再建され、園通山慈眼寺と改めている。
(注)善龍寺という説もある。


◆また、岩戸の金華山登山口前には、「巌窟観世音菩薩」がある。
傍らには、「金華山城主斎藤利永 守本尊窟観世音 是より八丁」と彫られた石柱もある。
その石柱は半分に折れており、どこからか移設したらしい。境内は荒れた感じで残念だ。
観音周辺では、明治40年に滝開きをし、一時は観光客で賑わったらしいが、今は寂れている。


そこで、私見であるが、当時の稲葉山城へのメイン登城口は城の南側の岩戸だと思う。
岩戸公園の辺りに侍屋敷や町もあったかもしれない。

以上  


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2016年04月16日

岐阜城主「斎藤龍興」様 (武将のお墓参り9)

2016年4月
<岐阜城主のお墓参り>

face021.「斎藤龍興」様の墓所

稲葉山城主「斎藤龍興」様のお墓参りに行ってきた。斎藤龍興様は、斎藤道三様のお孫さんである。
父義龍様が病死したため若くして稲葉山城主になるも、織田信長様に攻められて、岐阜を追い出された。

その後は、あちこちの反信長勢力に与し、最後は縁戚である越前の朝倉軍に加わるも、
「刀根坂の戦い」(福井県敦賀市の南東端)で、朝倉軍の多くの有力武将らと共に討死した。
(ただし、その時には討死せず、生きて富山に逃れたという説もある。)

墓所は、刀根坂の北東にあたる敦賀市疋田(愛発地区)にあるが、探すのに大変苦労した。
国道8号線と国道161号線の合流点に観光案内の看板があり、
「戦国時代武将の墓」が載っていたので、その付近を捜したが見つけられなかった。

そこで、近くの交番に立ち寄り尋ねたが、ご存じなかった。しかし、愛発地区の歴史マップをいただけた。
マップは先ほどの看板と同じ内容であったが、もう一度捜しに行ってみた。

それでもわからず、付近を通りかかった地元の方に尋ねたところ、
誰の墓かわからないとの前置きで、墓所の場所を教えていただいた。
(マップの中央左寄り、五輪塔の左に赤丸を付けたところ)


そこは、国道の合流点を東(8号線側)に行ってすぐの橋を渡り、左側の山裾にあった。
墓石群はひっそりと建っていた。 (車は、反対側にあるチェーン脱着所に停めた。)


付近には案内になるもの何もなく、墓所の手前に朽ちて倒れた案内板があった。
それは、赤く錆びて、文字も満足に読めない状態であった。


その案内板に亡くなった武将名がたくさん書いてあるが、
かろうじて「一色治部大輔」(龍興様)の文字も読めた。

墓所には、五輪塔や石仏などがたくさん並んでいるが、破損したものがほとんどだ。
五輪塔も五石が満足に揃っていない。



付近から出土したものを寄せ集めたって感じだ。鉄兜を被せてある墓石もあった。
墓石の主の案内がなく、残念ながら龍興様のお墓を特定できなかった。
墓所の前で合掌。



face022.龍興様の菩提寺
後斎藤氏三代の菩提寺は、岐阜市の常在寺が有名であるが、
最近になって知った龍興様の菩提寺情報をお知らせする。

岐阜市梅林公園内にある龍興寺の前の石柱には、
「大雲山龍興庵」、「斎藤龍興公念持仏 本尊知恵観世音菩薩」、「谷汲山御分身」とある。



ご住職に『室町時代に龍興が今の加納竜興町あたりに創建し、盛徳寺の末寺であった。
その後、明治時代になって梅林公園内にお堂を建てて、龍興の念持仏と谷汲山ご分身を祀った。

戦後になって、寺は「~寺」か「~院」と名乗ることになり、今の名称は「龍興寺」となっている。
当寺には、龍興に関する資料は伝わっていない。』と教えていただいた。

その後、図書館で「加納町史(昭和16年7月)」を調べ、要約すると次の通り。
ただし、「後日の考証を待つ」という内容もあるのであしからず。

『斎藤龍興(岐阜城主)が、永禄七年(1564)に菩提所として、
現在の岐阜市加納竜興町1丁目に龍興庵を建立。

そこは、守護代斎藤妙椿の家臣である石丸利光が、菩提寺として創立した
大雲山龍光寺の跡地である。(利光は、戦功により斎藤の名を許された。)

岐阜城落城後、龍興北国に戦死し、寺も退転。

明暦元年(1655)、大安祖林首座が加納城主松平丹波守光重公に願出で、
加納宿本陣の松波家の尽力で庵を再興。
松波家は斎藤氏後裔であり、祖先の霊を回向供養するために創立したのであろう。

「元禄八年頃松平丹波守光永時代 加納藩家中之図」には、
城下の南西はずれに「龍興庵」が載っている。

明治11年(1878)4月、岐阜市の梅林公園内の現在地に移転。』

現在の加納竜興町には、地名のみが残り、「加納竜興町」名のバス停がある。
竜興町の西隣には、「穴釜墓地」という変わった名の墓地があるが、
龍興庵の旧墓地だったのだろうか?(今後調べてみたい。)

以上
  


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2015年12月24日

美濃国最後の守護「土岐頼芸」公、弟「土岐頼香」公 (武将のお墓参り8)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
室町幕府に任命された美濃国最後の守護は、「土岐頼芸公」である。
「斎藤道三」様に国を追われたことで有名である。

さて、頼芸公は国を出てから、あちこちの縁を頼り流浪の旅となった。
最後は旧臣の「稲葉一鉄」公の計らいで、
岐阜県揖斐川町谷汲岐礼の地に住んだのである。

そして、頼芸公の墓所は岐礼の法雲寺にある。
門前の参道脇、左側の石段の間にお墓が立っている。

自然石で、質素なお墓である。
傍らに「岐阜県史跡 土岐頼芸の墓」と書いた標柱が立つが、
説明を書いたものはなく、寂しい。
合掌

旧谷汲村岐礼の法雲寺

「土岐頼芸公」のお墓





次は、頼芸公の弟「土岐頼香公」である。
その墓所は、岐阜県笠松町無動寺の光得寺の西方にある。

昔は藪の中だったようだが、今は藪はない。
住宅の間の細い路地を入った所に墓所があり、探しづらかった。

墓前に「土岐塚」の石柱があり、小さな自然石のお墓がある。
石柱がなければ、お墓と分からない。
合掌

案内板が立っており、次のように書いてある。

「土岐塚
天文十三年(1544)九月、尾張の織田信秀が美濃へ攻め込んできた時、
斎藤道三の娘婿土岐頼香が無動寺でこれを迎え討ち、追い返した。

道三は羽島市の大浦辺に陣を張っていたが、土岐氏を滅ばそうと考えて、
家来に命じ、無動寺に陣取っていた頼香を殺害させた。
頼香は光得寺のやぶ影に葬られたという。

ここがその土岐塚で、心ある人たちが弔ってきた。
道三はいろいろ策をめぐらせて、土岐氏を滅ぼした。
(笠松町文化財めぐりガイドによる)」

なお、光得寺の境内に「無動寺の戦い」の説明板があり、
土岐塚よりも詳しい説明が書いてある。

「土岐頼香公」のお墓




以上

  


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2015年12月19日

岐阜県にある源頼朝様の兄「源朝長」様、弟「源義円」様のお墓 (武将のお墓参り7)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
美濃の国には、「源頼朝」様の兄弟である「朝長」様と「義円」様のお墓がある。

face02兄「源朝長」様の墓所は、岐阜県大垣市青墓町の円興寺山にある。
山中のあちこちには旧円興寺の伽藍や多くの塔頭があったが、今はない。
あちこちに石垣や石塔・石仏が残るのみである。(城跡みたいだ。)

この辺りは「青少年憩いの森遊歩道」になっており、山麓に遊歩道の案内板がある。
山への入口は2ヶ所あるが、駐車場がある南側から登ることにした。

入口には、「クマ出没注意」の看板もあった。
ドキドキしながら山道を登った。
しばらく山道(遊歩道)を登って行くと、元円興寺仁王門跡に至る。

俳聖「松尾芭蕉」翁が朝長様のお墓を詣でた時に詠んだ句碑もあり、
「苔埋む 蔦のうつつの 念仏哉」と彫ってある。

その先に目指す「源朝長」様の墓所があった。
「清和源氏と朝長公」という看板があり、家系図が書いてある。

墓所の中央に五輪塔が三基並んでいる。
左から、朝長様、義平様、義朝様である。
両脇には、忠臣たちの五輪塔などが並んでいる。
合掌

左方には、父「源義朝」様ゆかりの「青墓の長者」大炊氏の墓所もある。

「史跡 源朝長墓」石柱

源氏墓所

左から「朝長」様、「義平」様、「義朝」様の五輪塔



face02弟「源義円」様の墓所は、岐阜県大垣市墨俣町の田畑の中にある。
墓所入口に「大垣市指定文化財 源義円の墓」という案内があるが、小さくてわかりずらい。

墓所の前の道路は細く、車1台が通れる程度だ。
狭い通路を5~6mくらい入った所の、低い石垣の上に五輪塔があった。
周りは田畑で「こんなところにあるの?」という感じだ。
合掌

墓所に説明板はないが、東方へ少し離れた所に「源平墨俣川の合戦」の案内板があり、
古戦場碑、源義円供養塔、義円地蔵がある。

墓所入口

「義円公墓」

「源義円供養塔」


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 17:18Comments(0)武将のお墓参り