2015年12月24日

美濃国最後の守護「土岐頼芸」公、弟「土岐頼香」公 (武将のお墓参り8)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
室町幕府に任命された美濃国最後の守護は、「土岐頼芸公」である。
「斎藤道三」様に国を追われたことで有名である。

さて、頼芸公は国を出てから、あちこちの縁を頼り流浪の旅となった。
最後は旧臣の「稲葉一鉄」公の計らいで、
岐阜県揖斐川町谷汲岐礼の地に住んだのである。

そして、頼芸公の墓所は岐礼の法雲寺にある。
門前の参道脇、左側の石段の間にお墓が立っている。

自然石で、質素なお墓である。
傍らに「岐阜県史跡 土岐頼芸の墓」と書いた標柱が立つが、
説明を書いたものはなく、寂しい。
合掌

旧谷汲村岐礼の法雲寺

「土岐頼芸公」のお墓





次は、頼芸公の弟「土岐頼香公」である。
その墓所は、岐阜県笠松町無動寺の光得寺の西方にある。

昔は藪の中だったようだが、今は藪はない。
住宅の間の細い路地を入った所に墓所があり、探しづらかった。

墓前に「土岐塚」の石柱があり、小さな自然石のお墓がある。
石柱がなければ、お墓と分からない。
合掌

案内板が立っており、次のように書いてある。

「土岐塚
天文十三年(1544)九月、尾張の織田信秀が美濃へ攻め込んできた時、
斎藤道三の娘婿土岐頼香が無動寺でこれを迎え討ち、追い返した。

道三は羽島市の大浦辺に陣を張っていたが、土岐氏を滅ばそうと考えて、
家来に命じ、無動寺に陣取っていた頼香を殺害させた。
頼香は光得寺のやぶ影に葬られたという。

ここがその土岐塚で、心ある人たちが弔ってきた。
道三はいろいろ策をめぐらせて、土岐氏を滅ぼした。
(笠松町文化財めぐりガイドによる)」

なお、光得寺の境内に「無動寺の戦い」の説明板があり、
土岐塚よりも詳しい説明が書いてある。

「土岐頼香公」のお墓




以上

  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:00Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月19日

岐阜県にある源頼朝様の兄「源朝長」様、弟「源義円」様のお墓 (武将のお墓参り7)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
美濃の国には、「源頼朝」様の兄弟である「朝長」様と「義円」様のお墓がある。

face02兄「源朝長」様の墓所は、岐阜県大垣市青墓町の円興寺山にある。
山中のあちこちには旧円興寺の伽藍や多くの塔頭があったが、今はない。
あちこちに石垣や石塔・石仏が残るのみである。(城跡みたいだ。)

この辺りは「青少年憩いの森遊歩道」になっており、山麓に遊歩道の案内板がある。
山への入口は2ヶ所あるが、駐車場がある南側から登ることにした。

入口には、「クマ出没注意」の看板もあった。
ドキドキしながら山道を登った。
しばらく山道(遊歩道)を登って行くと、元円興寺仁王門跡に至る。

俳聖「松尾芭蕉」翁が朝長様のお墓を詣でた時に詠んだ句碑もあり、
「苔埋む 蔦のうつつの 念仏哉」と彫ってある。

その先に目指す「源朝長」様の墓所があった。
「清和源氏と朝長公」という看板があり、家系図が書いてある。

墓所の中央に五輪塔が三基並んでいる。
左から、朝長様、義平様、義朝様である。
両脇には、忠臣たちの五輪塔などが並んでいる。
合掌

左方には、父「源義朝」様ゆかりの「青墓の長者」大炊氏の墓所もある。

「史跡 源朝長墓」石柱

源氏墓所

左から「朝長」様、「義平」様、「義朝」様の五輪塔



face02弟「源義円」様の墓所は、岐阜県大垣市墨俣町の田畑の中にある。
墓所入口に「大垣市指定文化財 源義円の墓」という案内があるが、小さくてわかりずらい。

墓所の前の道路は細く、車1台が通れる程度だ。
狭い通路を5~6mくらい入った所の、低い石垣の上に五輪塔があった。
周りは田畑で「こんなところにあるの?」という感じだ。
合掌

墓所に説明板はないが、東方へ少し離れた所に「源平墨俣川の合戦」の案内板があり、
古戦場碑、源義円供養塔、義円地蔵がある。

墓所入口

「義円公墓」

「源義円供養塔」


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 17:18Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月11日

加納城主「松平光重」公 (武将のお墓参り6)

<美濃国加納城主のお墓参り>

★岐阜県本巣市郡府452 「大慈山智勝院」
智勝院は、加納城主「松平(戸田)光重」公はじめ一族と家臣の墓所である。
「加納城跡」は岐阜市加納にあるが、墓所は領地の一部であるここに造られた。

智勝院の前には柿畑が広がっており、のどかな所だ。
お寺は山裾のやや上に建っており、眺めが良い。
境内には枝垂れ桜があり、花の季節にはライトアップされるそうだ。

◆本堂前に由来が記された石碑があり、次のように書いてある。
「当院は大慈山智勝院といい曹洞宗の禅寺である。

当院は寛文元年(西暦1661年)当時加納城主松平丹波守光重公により、
その祖母智勝院殿悟心理省大姉(於大の方の娘 徳川家康公の養妹松姫を
弔うために建立されたお寺である。

光重公は、当院を建立すると同時に、寺領黒印五十二石三斗三合を寄付し、
爾後代々の墓所とした。

墓は本堂西上段に位置し、光重公初めその子孫代々の墓が立ち並んでいる。
北廟には、光重公の子息にあたる北方の旗本戸田氏代々の墓がある。

以下略
当山十七世 琢磨代」 

◆松姫は、家康公の母である「於大の方」が、再婚後に生んだ方であり、
のちに家康公の養妹になっている。
本堂の屋根瓦には、葵紋と六つ星紋(戸田家)の両方が刻まれている。


光重公は、兵庫の明石藩から岐阜の加納藩に転封となって来た。
松平氏は加納城主として三代目の時に、山城淀藩に転封となっている。

◆墓所は、山の斜面にあり、古いお墓がたくさん並んでいる。
藩主一族の墓所は、広場を囲んで並んでいる。
しかし、案内板がなく、どなたのお墓かわかりずらい。合掌。




城主の墓石は、五輪塔でも宝篋印塔でもない。
自然石の正面を平たくして法名を刻んである。

中央にある立派なお墓は文字が読めたので、初代藩主光重公のお墓とわかった。


二代藩主「松平光永」公の文字も読めた。


北廟の北方の旗本戸田氏墓所は、探したがわからなかった。
残念。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:09Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月09日

岐阜市の紅葉名所「大龍寺」 (花39)

2015年12月9日

今日も空が青かった。
それで、どこかへ紅葉を観に行こうと思った。

「そうだ、大龍寺へ行こう!」
岐阜市粟野の「だるま観音」で有名な金粟山大龍寺だ。
紅葉の名所でもある。

そこには、ドウダンツツジがたくさん植えてある。
春の花の季節も良いが、ドウダンツツジの紅葉も良い。

お堂の後ろの山には、濃い赤色の紅葉の帯があった。
終わりかけではあるが、青空とマッチして美しい景色を造っていた。

観に来て良かった。

PS
「ドウダンツツジの秋季拝観は終了しました。」と貼り紙がしてあった。













  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:46Comments(0)

2015年12月07日

岐阜市一番の紅葉名所「岐阜公園」 (花38)

2015年12月7日
今日は晴天。
「そうだ!岐阜公園へ行こう。」

岐阜市内で一番の紅葉名所といえば、観光名所でもある「岐阜公園」。
公園のあちこちが、紅葉(もみじ)の赤に染まっていた。
岐阜市民の誇れる紅葉名所である。

太陽に照らされ、赤色がとても鮮やかだ。
「来てみて良かった!」と思った。

中でも特に美しいのは、「信長の庭」周辺である。
池に紅葉が映り、「素晴らしいのなんの」なのである。

それから、「織田信長公居館跡」の紅葉も美しい。
青空に赤色が映えていた。

岐阜公園の紅葉の一番の見頃は、例年だと11月末だが、
今年は少し遅れていた。
この見頃は、今週中までかな?

PS
金華山ロープウェイは、12月7日~10日は点検のためお休み。
山上のリス村やリロちゃん、展望レストランもお休みである。

Gifu City














  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:23Comments(0)

2015年12月01日

大垣城主「池田恒興(信輝)」様、岐阜城主「池田元助」様 (武将のお墓参り5)

<岐阜城主のお墓参り>

★岐阜県揖斐郡池田町本郷1341-1 「龍徳寺」
織田信長様の乳兄弟であった「池田恒興(信輝)」様と嫡男「池田元助」様の墓所は
龍徳寺で、お墓はお寺の西北(道路の西側)の飛び地境内にある。

◆二人のお墓の前には、「池田勝入斎信輝公父子之墓」と刻まれた石柱が立っており、
見つけやすいと思う。


墓域の周りは、囲いがしてある。
立派な石の扉があり、そこには家紋の揚羽蝶が浮彫にされている。


墓碑の近くに寄ることはできないが、五輪塔の前に墓の主が表示してあるので、
向かって左側が恒興様、右側が元助様とわかる。合掌。



◆墓前に案内板があり、次のように書いてある。
 「池田信輝(恒興)・元助の墓

 恒興は織田信長と乳兄弟であったので、信長に仕え永禄10年(1567)の
 稲葉山城攻略の戦功をたてた。さらに、信長が浅井・朝倉連合軍を破った元亀元年
 (1570)の姉川の戦いで戦功を立て、大垣城に住み十三万石の大名となったが、

 本能寺の変で信長が明智光秀に殺された後、
 豊臣秀吉に味方して山崎合戦で光秀と戦い、これを亡くすために戦功をたてた。
 
 池田恒興は勝入斎といって大垣城城主となり、子の元助(之助ともいう)が岐阜城主の頃、
 恒興父子は秀吉に誘われ尾張の長久手に出陣し、父子共に戦死を遂げた。

 時は天正12年(1584)4月9日であった。
 法名は信輝 前紀州城守雄岳宗英禅定門、元助 前紀州顕功英節禅定門、
 
 父子の墓は始め大垣市林町にあったといわれるが、徳川氏の忌むところとなり、
 出身地である当地に移され、現在地にある。

 尚、恒興の長男は元助であり、次男が輝政である。輝政は始め池尻城主となり、
 大垣・岐阜・三河吉田城主を経て、慶長5年(1600)姫路城主となる。

 輝政の次男忠継が慶長8年(1603)備前国岡山城主となり、その子孫が
 現在の岡山・池田牧場主池田隆政氏(今上天皇の姉・厚子妃の夫)である。」

以上
  


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