2015年12月24日

岐阜県揖斐川町<法雲寺>美濃国守護「土岐頼芸公」、岐阜県笠松町の弟「土岐頼香公」 (武将のお墓参り8)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
★法雲寺 岐阜県揖斐川町谷汲岐礼 (境内自由)
室町幕府に任命された美濃国最後の守護は、「土岐頼芸公」である。
「斎藤道三公」に国を追われたことで有名である。

さて、頼芸公は国を出てから、あちこちの縁を頼り流浪の旅となった。
最後は旧臣の「稲葉一鉄公」の計らいで、
岐阜県揖斐川町谷汲岐礼の地に住んだのである。

◆土岐頼芸公の墓所は旧谷汲村岐礼の法雲寺にある。


◆参道の門前左脇の石段の間に「土岐頼芸公」のお墓が立っている。合掌
傍らに「岐阜県史跡 土岐頼芸の墓」と書いた標柱が立つ。


◆自然石が墓碑で、質素なお墓である。説明を書いたものはなく、寂しい。




★「土岐頼香公墓所(土岐塚)」 岐阜県笠松町無動寺、光得寺の西方
土岐頼香公は頼芸公の弟である。

◆その墓碑は、昔は藪の中だったようだが、今は藪はない。
住宅の間の細い路地を入った所に墓所があり、探しづらかった。

◆墓前に「土岐塚」の石柱がある。


◆小さな自然石の土岐頼香公墓碑がある。合掌
石柱がなければ、お墓と分からない。


◆墓碑前に案内板が立っており、次のように記してある。

「土岐塚
天文十三年(1544)九月、尾張の織田信秀が美濃へ攻め込んできた時、
斎藤道三の娘婿土岐頼香が無動寺でこれを迎え討ち、追い返した。

道三は羽島市の大浦辺に陣を張っていたが、土岐氏を滅ばそうと考えて、
家来に命じ、無動寺に陣取っていた頼香を殺害させた。
頼香は光得寺のやぶ影に葬られたという。

ここがその土岐塚で、心ある人たちが弔ってきた。
道三はいろいろ策をめぐらせて、土岐氏を滅ぼした。
(笠松町文化財めぐりガイドによる)」

◆なお、光得寺の境内に「無動寺の戦い」の説明板があり、
土岐塚よりも詳しい説明が書いてある。

以上

  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:00Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月19日

岐阜県大垣市 源頼朝公の兄「源朝長公」、弟「源義円公」の墓所 (武将のお墓参り7)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
美濃国には、「源頼朝公」の兄弟である「朝長公」と「義円公」のお墓がある。

★★face02兄「源朝長公」の墓所は、岐阜県大垣市青墓町の円興寺山にある。
山中のあちこちには旧円興寺の伽藍や多くの塔頭があったが、今はない。
あちこちに石垣や石塔・石仏が残るのみである。(城跡みたいだ。)

◆この辺りは「青少年憩いの森遊歩道」になっており、山麓に遊歩道の案内板がある。
山への入口は2ヶ所あるが、駐車場がある南側から登ることにした。

◆入口には、「クマ出没注意」の看板もあった。
ドキドキしながら山道を登った。
しばらく山道(遊歩道)を登って行くと、元円興寺仁王門跡に至る。

◆俳聖「松尾芭蕉」翁が朝長公のお墓を詣でた時に詠んだ句碑もあり、
「苔埋む 蔦のうつつの 念仏哉」と刻まれている。

◆その先に目指す「源朝長公」の墓所があった。
「清和源氏と朝長公」という看板があり、家系図が書いてある。
「史跡 源朝長墓」石柱


「源氏墓所」


◆墓所の中央に五輪塔が三基並んでいる。左から、朝長公、義平公、義朝公である。
両脇には、忠臣たちの五輪塔などが並んでいる。合掌


◆左方には、父「源義朝公」ゆかりの「青墓の長者」大炊氏の墓所もある。

★★face02弟「源義円公」の墓所は、岐阜県大垣市墨俣町の田畑の中にある。

◆墓所入口に「大垣市指定文化財 源義円の墓」という案内があるが、小さくてわかりずらい。
墓所の前の道路は細く、車1台が通れる程度だ。


◆狭い通路を5~6mくらい入った所の、低い石垣の上に五輪塔があった。合掌
周りは田畑で「こんなところにあるの?」という感じだ。


◆墓所に説明板はないが、東方へ少し離れた所に「源平墨俣川の合戦」の案内板があり、
古戦場碑、源義円供養塔、義円地蔵がある。
「源義円供養塔」


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 17:18Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月11日

岐阜県本巣市<智勝院> 「加納藩主松平光重公」 (武将のお墓参り6)

<美濃国加納藩主のお墓参り>

★「大慈山智勝院」 岐阜県本巣市郡府452 
智勝院は、加納藩主「松平(戸田)光重公」はじめ一族と家臣の墓所である。
「加納城跡」は岐阜市加納にあるが、墓所は領地の一部であるここに造られた。

智勝院の前には柿畑が広がっており、のどかな所だ。
お寺は山裾のやや上に建っており、眺めが良い。
境内には枝垂れ桜があり、花の季節にはライトアップされるそうだ。

◆本堂前に由来が記された石碑があり、次のように書いてある。
「当院は大慈山智勝院といい曹洞宗の禅寺である。

当院は寛文元年(西暦1661年)当時加納城主松平丹波守光重公により、
その祖母智勝院殿悟心理省大姉(於大の方の娘 徳川家康公の養妹松姫を
弔うために建立されたお寺である。

光重公は、当院を建立すると同時に、寺領黒印五十二石三斗三合を寄付し、
爾後代々の墓所とした。

墓は本堂西上段に位置し、光重公初めその子孫代々の墓が立ち並んでいる。
北廟には、光重公の子息にあたる北方の旗本戸田氏代々の墓がある。

以下略
当山十七世 琢磨代」 

◆松姫は、家康公の母である「於大の方」が、再婚後に生んだ方であり、
のちに家康公の養妹になっている。
本堂の屋根瓦には、葵紋と六つ星紋(戸田家)の両方が刻まれている。


◆光重公は、兵庫の明石藩から岐阜の加納藩に転封となった。
松平氏は加納藩主として三代目の時に、山城淀藩に転封となっている。

◆墓所は、山の斜面にあり、古いお墓がたくさん並んでいる。
藩主一族の墓所は、広場を囲んで並んでいる。
しかし、案内板がなく、どなたのお墓かわかりずらい。合掌。




◆藩主の墓石は、五輪塔でも宝篋印塔でもない。
自然石の正面を平たくして法名を刻んである。

中央にある立派なお墓は文字が読めたので、初代藩主光重公のお墓とわかった。


二代藩主「松平光永」公の文字も読めた。


◆旗本(北方)戸田氏墓所は、探したがわからなかった。残念。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:09Comments(0)武将のお墓参り

2015年12月09日

岐阜市の紅葉名所「大龍寺」 (花39)

2015年12月9日

今日も空が青かった。
それで、どこかへ紅葉を観に行こうと思った。

「そうだ、大龍寺へ行こう!」
岐阜市粟野の「だるま観音」で有名な金粟山大龍寺だ。
紅葉の名所でもある。

そこには、ドウダンツツジがたくさん植えてある。
春の花の季節も良いが、ドウダンツツジの紅葉も良い。

お堂の後ろの山には、濃い赤色の紅葉の帯があった。
終わりかけではあるが、青空とマッチして美しい景色を造っていた。

観に来て良かった。

PS
「ドウダンツツジの秋季拝観は終了しました。」と貼り紙がしてあった。













  


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2015年12月07日

岐阜市一番の紅葉名所「岐阜公園」 (花38)

2015年12月7日
今日は晴天。
「そうだ!岐阜公園へ行こう。」

岐阜市内で一番の紅葉名所といえば、観光名所でもある「岐阜公園」。
公園のあちこちが、紅葉(もみじ)の赤に染まっていた。
岐阜市民の誇れる紅葉名所である。

太陽に照らされ、赤色がとても鮮やかだ。
「来てみて良かった!」と思った。

中でも特に美しいのは、「信長の庭」周辺である。
池に紅葉が映り、「素晴らしいのなんの」なのである。

それから、「織田信長公居館跡」の紅葉も美しい。
青空に赤色が映えていた。

岐阜公園の紅葉の一番の見頃は、例年だと11月末だが、
今年は少し遅れていた。
この見頃は、今週中までかな?

PS
金華山ロープウェイは、12月7日~10日は点検のためお休み。
山上のリス村やリロちゃん、展望レストランもお休みである。

Gifu City














  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:23Comments(0)

2015年12月01日

岐阜県池田町<龍徳寺> 「大垣城主池田恒興(信輝)公」、「岐阜城主池田元助公」 (武将のお墓参り5)

<岐阜城主のお墓参り>

★「龍徳寺」 岐阜県揖斐郡池田町本郷1341-1 
織田信長様の乳兄弟であった「池田恒興(信輝)公」と嫡男「池田元助公」の墓所は
龍徳寺で、お墓はお寺の西北(道路の西側)の飛び地境内にある。

◆二人のお墓の前には、「池田勝入斎信輝公父子之墓」と刻まれた石柱が立っており、
見つけやすいと思う。


◆墓域の周りは、囲いがしてある。
立派な石の扉があり、そこには家紋の揚羽蝶が浮彫にされている。


◆墓碑の近くに寄ることはできないが、五輪塔の前に墓の主が表示してあるので、
向かって左側が恒興公、右側が元助公とわかる。合掌。



◆墓前に案内板があり、次のように書いてある。
 「池田信輝(恒興)・元助の墓

 恒興は織田信長と乳兄弟であったので、信長に仕え永禄10年(1567)の
 稲葉山城攻略の戦功をたてた。さらに、信長が浅井・朝倉連合軍を破った元亀元年
 (1570)の姉川の戦いで戦功を立て、大垣城に住み十三万石の大名となったが、

 本能寺の変で信長が明智光秀に殺された後、
 豊臣秀吉に味方して山崎合戦で光秀と戦い、これを亡くすために戦功をたてた。
 
 池田恒興は勝入斎といって大垣城城主となり、子の元助(之助ともいう)が岐阜城主の頃、
 恒興父子は秀吉に誘われ尾張の長久手に出陣し、父子共に戦死を遂げた。

 時は天正12年(1584)4月9日であった。
 法名は信輝 前紀州城守雄岳宗英禅定門、元助 前紀州顕功英節禅定門、
 
 父子の墓は始め大垣市林町にあったといわれるが、徳川氏の忌むところとなり、
 出身地である当地に移され、現在地にある。

 尚、恒興の長男は元助であり、次男が輝政である。輝政は始め池尻城主となり、
 大垣・岐阜・三河吉田城主を経て、慶長5年(1600)姫路城主となる。

 輝政の次男忠継が慶長8年(1603)備前国岡山城主となり、その子孫が
 現在の岡山・池田牧場主池田隆政氏(今上天皇の姉・厚子妃の夫)である。」

以上
  


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