2016年07月30日

岐阜県各務原市<大安寺> 岐阜城主「斎藤利永公」&美濃国守護「土岐頼益公」墓所 (武将のお墓参り10)

<岐阜城主のお墓参り> 平成27年(2015)11月

★★face02「大安寺」 岐阜県各務原市鵜沼 
岐阜城主「斎藤利永公」と美濃国守護「土岐頼益公」の墓碑がある。

★<稲葉山城主(金華山城主)「斎藤帯刀左衛門尉利永(越前守)公」>
「斎藤利永公」は、美濃国守護代を父宗円(利明)公から継いだ。
そして、美濃国守護「土岐持益公」の執権として実権を掌握し、権勢を揮った方である。

稲葉山城は、前城主「二階堂行藤公」が去った後、城主不在となっていたが、
約100年後の応永の頃になり、利永公が修築し居城とした。

その後、文安二年(1445)川手城(革手城)の持益公の後見のため、近くに加納城を築いて移った。
(旧加納城は、利永公が最初に築いたと伝わる。)

利永公は、寛政元年/長禄四年(1460)病没。和巌大功崇輔居士。
墓所は、中山道鵜沼宿の北方に位置する「大安寺」にある。

★<美濃国守護「土岐頼益公」>
持益公の父である美濃国守護「土岐頼益公」が、応永二年に「大安寺」を創建した。
頼益公が斎藤氏を守護代に抜擢したと伝わる。

頼益公は、将軍足利義満公・義持公から信頼され、評定衆に列し、
応永十年(1403)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、室町幕府七頭の一家となり、
同年に侍所頭人、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた方である。
応永二一年(1414)没、「大安寺」に眠る。

★大安寺
◆寺は山中にあり、境内入口は東南に位置する。


◆参道を入ってすぐに「落慶香語」の石碑があり、建物の変遷等が刻んである。


◆参道は、きれいに整備してあり、山門へと続く。本堂前で参拝。
本堂の左方奥が墓地になっており、その墓地からも利永公・頼益公の墓所に行けるが、わかりずらい。


◆寺の入口は境内の南東にあるが、利永公と頼益公の墓所入口はその左方にある。
案内表示はない。下から見上げると、小さな森になっている所が墓所である。


◆少し荒れた墓所参道を登ると、墓所前の石段にたどり着く。
石段を上がった所は平らになり、周りは樹木に囲まれている。
そこは、高台になっており眺めが良い。


◆平地の奥に墓所があり、3段の石垣の上に土岐氏の桔梗紋が彫られた石塀がある。
その中に宝篋印塔の墓碑が二つ並んでいるが、案内表示はない。
左側の方が大きいので主家である「土岐頼益公」で、右側が「斎藤利永公」であろう。
木陰の中で二人仲良く並んでいた。合掌。


◆参考情報「鵜沼の歴史」(昭和41年12月8日発行)に次の記述がある。
『土岐頼益・斎藤利永の墓碑整理
大安寺の土岐頼益・斎藤利永墓碑を整理したのは栗木謙二です。
氏は大安寺に土岐頼益の墓があるはずとして、住持大竹円宗に訊ねたが、
火災に遭っているから無いととのことです。

昭和七年ころ村史編纂委員会の席上で本堂裏に石塔があることが話題となり調査したところ、
墓石の一部が輪積みされて石塔のようになって居り、地輪も散らばっていました。
無縫塔もありました。そこで阿部栄之助の調査を願い、宝篋印塔が多くあることを確かめました。
しかし、斎藤の名を記した墓石は見当たりません。
そこで栗木謙二はあたりの墓地を毎日のように探しました。門前の坂井源一も協力します。

或る日、探し疲れての帰途,大安寺の入口に近い地蔵堂で憩みます。
その時、ふと杖の先で柱の土台石を見たところ、宝篋印塔の地輪が使ってあります。
よく見ると宗輔の文字です。斎藤利永の墓銘です。

翌日、門前に三六軒の人々の助力で、この地輪を柱の下から抜き取ります。
これで「大功宗輔居士 長禄四年五月廿七日」と彫った斎藤利永の地輪は発見できたが、
土岐頼益のが出てきません。

そこで、谷に落ちていたのを拾い集めて宝篋印塔二基をつくり、一基を頼益、一基を利永とします。
ところが、一基だけ空輪が見当たりません。たまたま承国寺跡へ行ったら、
林某の藪に空輪が一つ落ちていたので、これをはめてみたら、きっちり納まりました。
これで一基は完成です。

今一基は空輪の尖端が欠けています。
そこで坂井一統の協力で胸の高さまで笹の茂っている大安寺の裏を探します。
偶然坂井源一の拾った破片が密着します。これで二基とも完成です。

もと土岐・斎藤の墓は本堂の裏にあったのです。
明治二四年の震災に本堂が倒れ、同三三年再建された時、この旧墓地の上に開山堂を建てることとなります。
明治四三年に地均しをして大正一年に竣工したのですが、
その時、開山堂の下から大きな骨壺が出たこともあります。

さて、土岐・斎藤の墓碑は大竹宗円が隠居所を建てる予定の場所へ、他の碑と共に並べます。
中央を頼益・利永とし、左右に他の碑を並べたのですが、順序には意味がありません。
墓地を設けた記念に、土岐氏の法要を営み、斎を出し、阿部栄之助の講演を願い、餅撒をします。
坂井一統を始めとして餅が四0棚もあがります。
この墓地に記念碑を建てます。阿部栄之助の撰文です。(以下略)』
(記念碑に刻まれている昭和八年九月二十三日の「修墓記」が本に記載されているが省略)

face02「慈眼寺」&「巌窟観世音菩薩」 岐阜県岐阜市長森岩戸
◆斎藤利永公は、金華山麓の厚見郡岩戸(現・岐阜市長森岩戸)に観音寺を建立している。
寺は慶長5年の兵火で焼失、元和年中に再建され、園通山慈眼寺と改めている。
(注)善龍寺という説もある。


◆また、岩戸の金華山登山口前には、「巌窟観世音菩薩」がある。
傍らには、「金華山城主斎藤利永 守本尊窟観世音 是より八丁」と彫られた石柱もある。
その石柱は半分に折れており、どこからか移設したらしい。境内は荒れた感じで残念だ。
観音周辺では、明治40年に滝開きをし、一時は観光客で賑わったらしいが、今は寂れている。


◆私見であるが、当時の稲葉山城へのメイン登城口は城の南側の岩戸だと思う。
岩戸公園の辺りに侍屋敷や町もあったかもしれない。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 18:18Comments(0)武将のお墓参り