2017年08月03日

岐阜県各務原市<少林寺> 「旗本坪内氏墓所」 (武将のお墓参り23)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017年7月 
★★少林寺「旗本坪内氏墓所」
岐阜県各務原市那加新加納町2104-1、境内自由

◆少林寺にある「旗本坪内氏歴代墓所」を訪れた。


◆少林寺は、戦国時代に兵火に焼かれ断絶した。
しかし、天保元年(1644)に旗本坪内氏の二代「家定公」が再興し、累代の菩提寺とした。

寺のすぐ南側に「旗本坪内(新加納)陣屋跡」があった。訪れた時は、そこは更地で公園予定地になっていた。
近くの中山道の一里塚跡に案内看板「中山道間の宿 新加納のご案内」があり、
「旗本坪内陣屋」について次のように記されていた。

「新加納周辺を治めていた坪内氏の初代は、松倉城(各務原市川島松倉町)に拠点を置き、
織田家に仕え蜂須賀小六ら川並衆をまとめていた。

4代利定は、関ケ原の戦いで徳川隊の鉄砲隊を率いて活躍。
これにより6530石を治める旗本となり、拠点を松倉城から新加納陣屋に移した。

陣屋は、巨大な濠(幅5,2m以上、深さ約3m)と土塁(約3m)に囲まれ、強固な防衛施設として建設された。
旗本坪内氏は、利定以降11定益まで続き、明治元年領地を奉還した。」

関ケ原の合戦で、坪内利定公は子4名と共に東軍に加わり武功を挙げた。
そして、利定公は初代旗本となる。
知行地は、宗家領(御納戸)、内分家領(御内分)、分家領(御分知)に分かれていた。

内分家は三家あり、各務原市内にそれぞれ領地・陣屋を持つ「三井坪内氏」と「前渡坪内氏」と
「平島坪内氏」であった。
分家は二家あり、江戸に屋敷を持つ築地坪内氏と貝坂坪内氏であった。

◆訪問した少林寺は、旧中山道から少し奥に入ったところにある。


◆境内に入り、真っすぐ参道を進む。突き当りのお堂の前を左に折れると山門がある。


◆山門を潜ると、正面に鐘楼があり、その右を奥に行くと本堂の前に出る。本堂で参拝。



◆本堂の左方に墓地の入口がある。


◆墓地に入ってすぐ右側が内分家「三井坪内氏墓所」であった。合掌 
大小の墓碑が、玉垣の上に隙間なく並んでいる。


◆正面に法名、側面に俗名と没年が刻まれているものもあった。奥の方にあり読めないものもある。
俗名が読めたのは、「定民公、定経公、定秀公、定高公、定並公、定職公」。


◆墓地へ入って突き当りの右側に「市指定史跡 旗本坪内家墓所」の標柱がある。


◆玉垣の上には、旗本宗家二代「家定公」ほかの墓碑が並んでいた。合掌
中央が家定公の墓碑とわかったが、他は俗名がわからなかった。


◆その右手に内分家「前渡坪内氏」らしい墓所がある。合掌 
隙間なく並んでいる墓碑は、俗名がわかったのは「定效公」だけだった。



◆さらに右隣りには内分家「平島坪内氏墓所」があった。合掌 
こちらの墓碑も隙間なく並んでいたが、俗名を読めるものが多かった。


読めたのは、「定英公、判定公、定基公、定覚公、定侯公、定矩公、定興公、定通公」。


◆本堂のすぐ左側に、開基「東陽英朝大和尚」の墓所の参道がある。
突き当りが和尚の墓所で、墓は土饅頭だった。合掌


◆和尚の墓の左に、立派な墓碑が6基並ぶ。「宗家坪内氏墓所」であった。合掌
左から順に、「8代定系(さだつぐ)公、7代定孝公、9代定儀(さだのり)公、
4代定長公、5代定重公、6代定堅公」の墓碑である。


◆境内及び墓所には、家定公墓碑前に「旗本坪内家墓所」の標柱があるのみであった。
坪内氏についての詳しい説明や、墓碑の案内が欲しかった。

墓所は整備されており、旗本坪内氏や夫人たちの立派な墓碑がたくさん並んでいた。
貴重な史跡である。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 15:14Comments(0)武将のお墓参り