2017年09月28日

京都<本禅寺> 「加納藩主大久保忠職公」&「大垣藩主石川忠総公」の墓所 (武将のお墓参り25)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017年9月

★★「本禅寺」 京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町394 
境内に「加納藩主・大久保忠職公」と「大垣藩主・石川忠総公」の墓碑がある。

◆寺は京都御所の東側に位置し、五本線の入った土塀で囲まれている。
正面の門は、境内の西側にある。


◆境内は自由参拝。門を潜ると正面奥に本堂があり、参拝。


◆本堂の右前に塔頭心城院があり、その左隣りに塀に囲まれた墓地がある。


◆心城院境内の左端を塀に沿って進むと、墓地入口があった。


墓地の右手奥に、大久保家と石川家の大型の墓碑が並んでいた。しかし、境内や墓地に案内は何もなく、
刻まれた文字も読みづらいものが多く、ネットで調べた墓主名が頼りだった。

★「大久保家墓碑」 
◆ネット情報では、大久保家墓碑9基の右端が大久保忠教(彦左衛門)公。
しかし、現地ではどれが忠教公の墓碑かわからず、心城院の方に教えていただいた。


◆忠教公の墓碑は、横一列9基のうちの右端(宇津季之公)の後方にあった。
墓碑は単独で石塀に囲まれた五輪塔で、大久保平助と刻んであった。合掌


◆横一列に並ぶ墓碑は、右から順に宇津季之公、大久保新十郎公、忠倫公、


◆忠職公室、忠職公、忠常公、


◆忠隣公、忠世公で、左端の小さい五輪塔の墓主は不明。
忠隣公だけが宝篋印塔で、他は五輪塔だ。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・大久保忠教(ただたか、通称・彦左衛門、幼名・平助)公
・・・徳川家康公・秀忠公・家光公に仕えた旗本。天下の御意見番として名高い。

・宇津季之公・・・忠職公の三男
・大久保新十郎公・・・忠職公の長男

・大久保忠倫公・・・忠職公の次男
・大久保忠職公室・・・松平忠明公(美濃加納藩主・奥平信昌公四男)の娘

・大久保忠職(ただもと)公・・・武蔵騎西藩二代藩主➡美濃加納藩主➡播磨明石藩主➡
肥前唐津藩初代藩主。父・忠常公、母・奥平信昌公の娘千姫。

・大久保忠常公・・・武蔵国騎西(きさい)藩初代藩主。父・忠隣公、正室・奥平信昌公の娘。
石川忠総公の兄。

・大久保忠隣(ただちか)公・・・父・忠世公。家康公・秀忠公に仕えた。
武蔵羽生城主➡相模小田原藩初代藩主。しかし、突如改易となり、彦根藩お預けとなる。
その理由は諸説あり。忠隣公の孫忠朝公のときに、大久保氏は小田原藩主に返り咲いた。

・大久保忠世(ただよ)公・・・相模小田原藩祖。家康公に仕えた徳川十六神将の一人。
三方ヶ原の戦いや長篠の戦い等で武功あり。兄は忠教公。

◆大久保忠職公について「加納町史」に次のように記載されている。
『寛永九年(1632)正月11日、加納城を給わり五万石を領す。
加賀守忠常の嫡男。慶長九年(1604)小田原生まれ。母は、奥平信昌の女千姫。

同十六年(1611)父遺領武州騎西二万石を給う。
同十九年(1614)祖父忠隣が罪を蒙った時、蟄居。寛永二年(1626)赦免。同九年加納城主。

同十六年(1639)三月三日播磨国明石城へ二万石加増で七万石で移封。
慶安二年(1649)肥前唐津へ八万三千石で移封。

明暦十年(1670)江戸で卒去、六十七才。
本源院日禅大居士と号し、江戸白金立行寺に於て葬式、遺骨を京都本禅寺に納めた。

室は、姫路の松平忠明の女梅姫、元禄五年(1692)逝去。
嫡子忠朝は、その後佐倉城へ加増転封。さらに小田原城十一万三千石へ加増転封。』

★「石川家の墓碑」 
◆五輪塔が7基、横一列に並んでいた。


◆右から順に石川勝之公、義孝公、忠総公室、忠総公、


◆廉勝公、昌能公、憲之公である。合掌


◆墓主の簡単な経歴は次の通り。
・石川勝之公・・・父・昌能公、世嗣のまま早世

・石川義孝公・・・父・憲之公、山城淀藩二代藩主
・石川忠総公室・・・堀尾吉晴公の娘

・石川忠総公・・・父・大久保忠隣公、家康公の命で外祖父・石川家成公の養子となる。
美濃大垣藩石川家三代藩主➡豊後日田藩主➡下総佐倉藩主➡近江膳所藩初代藩主。
家康公・秀忠公・家光公に仕えた。

・石川廉勝(かどかつ)公・・・父・忠総公、家督相続前に没した。
・石川昌能(まさよし)公・・・父・憲之公、日向守。嫡子のまま早世。

・石川憲之(のりゆき)公・・・父・廉勝公、近江膳所藩二代藩主➡伊勢亀山藩主➡山城淀藩初代藩主

◆心城院の方に、徳川家康公の側室と娘の墓碑、
「鐘楼に吊り下げられている鐘は、豊臣秀頼公が鋳造し、家康公が大坂夏の陣で陣鐘として使用。
忠教(彦左衛門)が持ち帰り奉納した。」と教えていただいた。お忙しい中ご案内いただき感謝。



以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:58Comments(0)武将のお墓参り

2017年09月26日

京都<大雲院>「織田信長公・織田信忠公墓所」 (武将のお墓参り24)

2017年9月<岐阜城主のお墓参り>

★大雲院 京都市東山区祇園町南側594-1
7月~9月に実施の「京の夏の旅」キャンペーンで特別公開している大雲院を訪れた。
祇園閣と寺宝を拝観、「織田信長公・信忠公供養塔」などに参拝できた。

◆大雲院は、高台寺前の「ねねの道」を北へ突き当たったところに位置している。


◆大雲院の総門は東側にあるが、特別公開の入口は「ねねの道」に面した南門であった。
門前に看板があり、「~エキゾチックな昭和の名建築 閣上からの絶景~大雲院 祇園閣
特別公開」と記してあった。特別公開のメインは「登録有形文化財の祇園閣」なのだ。


◆重厚な南門を潜って境内に入ると、目の前に本堂がある。
左に進むとすぐ右手に祇園閣が聳えていた。


元財閥大倉喜八郎が、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典記念に別荘内へ「祇園閣」を建てた。
京都を訪れたお客様に対し、祇園祭以外の季節にも祇園祭の鉾を披露するために建てたそうだ。
鉄筋コンクリート造三階建、高さ36m、鉾先に金鶏が羽を広げている。
設計は伊東忠太である。

祇園閣の入口は、階段を上った所にある。
入口前には、立派な阿吽のライオンの石像が向かい合っていた。
堂々としているが、よく見ると優しいお顔だ。とても素敵な像だ。



◆閣内は、撮影禁止だ。螺旋階段になっており、階段の壁には敦煌の壁画の模写が描かれている。
上るにつれて、異国風の仏や天女たちが次々に現れ、見応えがある。

最上階からの展望は、絶景だった。周りを360度眺めることができる。
西方は、ビルや現代の建物群がぎっしりと立ち並ぶ。北は平安神宮や京都大学など、
東は寺の甍越しに緑の山々、南は八坂の塔などが見える。

この絶景の写真を撮りたいと思ったが、ここも撮影禁止。
周りには、民家やマンションも多く、プライバシー保護のためだそうだ。
ガイドの方がいて、いろいろとお話を聞くことができて良かった。

◆祇園閣の南西側に墓地入口がある。
墓地入口の門は小さいが、門前の左右にある石灯籠は、どっしりして趣がある。


門の左脇に「織田信長公信忠公 墓所参道」と「石川五右衛門墓所参道」の石柱が立っている。
墓地内には、大泥棒「石川五右衛門」の墓もあるのだ。


◆墓地に入ってすぐ、参道は右に曲がっている。
少し進み左に折れると、奥の方に立派な「織田信長公・織田信忠公の供養塔」が立っていた。
供養塔は、二人で1基。右側に信長公、左側に信忠公の法名が刻まれている。合掌



墓碑の左脇に石碑があり、次のように刻まれている。
「織田信長公 織田信忠公 之墓所 天正年代菩薩堂安與愚和尚ノ寄進ニヨリ建立サレ
昭和五十四年三月吉日四条寺町大雲院墓地ヨリ 当地円山町大雲院墓地ニ移転ス」

◆石川五右衛門の墓所は矢印案内があり、分かりやすかった。
墓碑の右脇に「石川五右衛門墓所」の石碑がある。
低い玉垣に囲われ、中央に墓碑、両脇に石灯籠があった。合掌


◆本堂では、ガイドの方による大雲院の変遷、祇園閣、旧大倉財閥、五百羅漢図、
寺宝などの説明があった。大変わかりやすく、かつ、楽しく聞くことができた。(感謝)

大雲院は、「本能寺の変」の5年後の天正十五年(1587)、正親町天皇の勅命により、
信長公・信忠公の菩提を弔うために、御池御所(烏丸二条南)に建立された。
寺名を信長公の法名に因み総見院にしたかったが、総見院は大徳寺に豊臣秀吉公が建立した後であった。
そこで、信忠公の法名・大雲院殿に因んで「大雲院」と名付けたそうだ。

その後、秀吉公が寺域が狭いというので、天正十八年(1590)に寺町四条(現・高島屋あたり)に移転。
さらに、周辺が繁華街の中心となったため、昭和四十八年(1973)に現在地へ移転して現在に至る。

本堂内には、織田信忠公の坐像があったが、遠いし暗くてお姿がよく見えなかった。残念

◆境内の龍池会館に寺宝の一部が展示されている。
信長公から安土宗論の勝者・貞安上人に下付された軍配団扇、後陽成天皇の御宸筆、若冲、応挙、
富岡鉄斎の絵画などの貴重な寺宝を拝観できた。

◆大雲院は、常時公開ではない。3年程前にも特別公開があったそうだ。
今回は、たまたま特別公開を知ることができた。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:09Comments(0)武将のお墓参り