2017年10月28日

岐阜県大野町<月真寺> 「旗本加藤平内の墓所」&「竹中重元公(竹中半兵衛の父)の墓所」 (武将のお墓参り28)

<美濃国の武将のお墓参り> 2017年10月
★★「月真寺」 
岐阜県揖斐郡大野町大字公郷1812-1、境内自由

◆寺の入口は東側にある。


◆境内に入りまっすぐ進むと、門の跡らしきところの左右に標柱がある。
右側は「大野町史跡 加藤平内墓」、左側は「大野町史跡 竹中重元の墓及び五輪塔」と記してある。


◆さらに進み、鐘楼の前を過ぎると突き当たり、道は右に折れる。
その先が庫裏や本堂となる。本堂前にて参拝。


◆本堂の左端を右に折れると、突き当りが墓地である。


◆墓地はこじんまりしており、墓碑の間に通路が設けてある。


★墓地の少し奥まったところに、「旗本加藤氏の歴代墓碑」が10基並ぶ。
他の墓碑に比べて一段高く、大きく立派で、一目でそれとわかる。合掌


墓碑はコの字形に並んでおり、立札「大野町史跡 加藤平内の墓」が立っている。
墓碑についての説明はない。

そのため、墓主名は「池田町史」に記載の歴代当主の没年と墓碑に刻まれた没年から推定した。
ただし、左手前の1基だけは「加藤平内藤原挙直」と刻まれており、九代挙直公と判明。

◆正面に5基。左から順に、二代光定公、三代泰和(やすまさ)公、四代納泰(のりやす)公、
五代泰亨(やすとき)公、不明(香雲院殿、宝暦11年没)。


◆右側に4基。左から順に、不明(甲斐守、暁嶽院殿、文化元年没)、七代泰伊(やすただ)公、
八代泰威(やすたけ)公、孝源院殿・友直公。


◆旗本加藤氏であるが、初代「加藤平内光直公」は、加藤光泰公の三男。兄は加藤貞泰公。
光直公は、秀吉公、家康公に仕え、関ケ原合戦後に美濃国池田・安八・不破郡のうちで
3640石を与えられ、揖斐郡池田町に「六ノ井陣屋」を設けた。十代泰壮公の時に明治維新を迎えた。

◆参考だが、「池田町史」には、初代光直公はじめ歴代墓所は、
江戸神田(現・台東区浅草)「海禅寺」と記載がある。

また、初代光直公から十代泰壮公までのうち、六代泰朝公(駿河守)と七代泰伊公(右京)以外は
「平内」と記載がある。

★軍師竹中半兵衛の父・竹中重元公の墓碑は、旗本加藤氏歴代墓碑の北奥に位置する。
この写真では、左列の最奥。


◆墓碑の前に立札「大野町史跡 竹中重元の墓」が立っている。合掌
小ぶりで周りに並ぶ墓碑と大きさは変わらず、立札がなければわからない。


◆境内の外、西側の道路沿いに案内板があり、次のように記されていた。

『大御堂城跡 竹中重元の墓 加藤平内の墓 由緒
大御堂城跡 ここ月真寺の西一帯は、秀吉旗本の天才軍師竹中半兵衛重治が生まれた大御堂城跡と
伝えられています。江戸時代に公郷を治めた旗本加藤平内から月真寺に寄進されました。

以前は堀や土塁が残り、城の遺構とされていましたが、現在では土地の改変により
当時の面影を見ることはできません。

竹中重元の墓 竹中半兵衛の父竹中遠江守重元の墓が月真寺本堂西の墓所にあります。
重元は、明応6年(1497)に大御堂城で誕生し、永禄元年(1558)に岩手城を攻め、
その後永禄4年(1561)に病死したと伝えられています。

加藤平内の墓 月真寺は、池田町六之井に陣屋をかまえた旗本加藤平内の菩提寺です。
加藤家は初代光直から最後の領主泰荘まで11代続きました。

ここには加藤家代々の墓所があります。月真寺の山門は、もと六之井陣屋の門でしたが、
明治3年(1870)旧領主より寄進を受けて移築されたものです。  大野町教育委員会』

◆訪問時には、案内板に記してある山門は見当たらなかった。
また、加藤家代々の墓所があると記してあるが、初代光直公はじめ一部の領主の墓碑は判明しなかった。
少し残念だった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 19:55Comments(0)武将のお墓参り

2017年10月28日

岐阜県大垣市<円通寺> 「大垣藩主戸田家廟所」 (武将のお墓参り27)

<美濃国の武将のお墓参り> 2017年10月
★大垣藩主戸田家廟所 円通寺
 岐阜県大垣市西外側町1-32-1、境内自由


◆大垣藩初代藩主である戸田氏鉄公は、家康公に仕え、父一西公の死後、家督を継ぎ近江膳所藩主となる。
大坂の陣の後に摂津尼崎藩主を経て美濃大垣藩主となった。

◆寺の入口は東側にあり、境内に入ってすぐ右端に石柱「史蹟戸田家廟所」と案内板が立つ。


案内板には、次のように記してある。
『岐阜県指定史跡 戸田家廟所
大垣藩十万石の歴代藩主が眠る戸田家廟所は、寛永12年(1635)初代藩主戸田氏鉄公が尼崎から
大垣へ国替えになった際、同時に戸田家菩提寺の円通寺を移したことに始まる。

先の戦災で大きな被害を受けたが、昭和38年(1963)市制45周年を期に墓の復旧をはかると共に
東京の蓮光寺にあった9代氏正公・11代氏共公の墓も移すことになり、
翌年4月戸田家11代歴代藩主の墓が揃い完成した。』

◆境内に入ると真っすぐ石畳の参道が延び、奥には山門が建つ。
唐破風の美しい姿の山門である。どっしりとした瓦屋根もいい感じ。


山門前に案内板があり、次のように記してある。
『円通寺山門
円通寺山門は、寛永12年(1635)初代藩主戸田氏鉄公が尼崎から大垣へ国替えになった際、

同時に菩提寺である本寺の伽藍を移し、現在地に建立したものである。
以来、雷火のため数回焼失したが、現在の木造本瓦葺の山門は、天保年間(1830~44)に再建され、
大垣藩十万石歴代藩主の菩提寺の山門にふさわしい豪壮な姿を今に伝えている。』

◆山門を潜り、突き当りが本堂である。参拝。


◆本堂の左前に立札「大垣藩主戸田家廟所➡」があり、その先が墓地入口である。


◆墓地に入るとすぐ通路は右に折れ,突き当り奥が戸田家廟所である。


◆廟所入口。廟所は、白壁の土塀で囲われており、特別感がする。


◆廟所入口の右前に石碑があり、次のように刻まれている。
『史蹟 戸田家廟所の沿革
此の廟域は旧大垣藩主戸田家が尼崎から大垣に移封されてより三百三十余年の廟所であって
岐阜県並びに大垣市の史蹟に指定されて居ります

昭和二十年七月の空襲にて市の大半が焦土と化した際 不幸この廟所も焼失し
初代氏鉄公二代氏信公七代氏教公の墓石を残し その他は四散崩壊しました。

今や市制四十五周年に際し各方面ともその復興を加えつつある現状であり
よって東京にある九代氏正公11代氏共公の分骨を乞い これを合祀致し
ここに完成致しましたのでその沿革を記します

昭和三十九年四月 戸田家廟所復旧委員会会長●●●● 誌 』 

◆廟所の門扉の右側には、戸田家家紋が付いている。
門扉は開かれており、廟所内に入れた。
廟所内は、歴代藩主や家族の墓碑や石灯籠が整然と立ち並んている。合掌
墓碑間の通路は石畳となっている。


◆藩主の墓碑は全て五輪塔である。
各墓碑には立札があり、墓主の法名・名前・生没年が記されていて大変うれしい。

◆正面奥に二基あり、右が初代氏鉄(うじかね)公の墓碑である。


◆二代氏信公の墓碑


◆右奥が三代氏西(うじあき)公、左手前が六代氏英(うじひで)公の墓碑


◆四代氏定公の墓碑


◆五代氏長公の墓碑


◆七代氏教(うじのり)公の墓碑


◆八代氏庸(うじつね)公の墓碑


◆九代氏正公の墓碑



◆十代氏彬(うじあきら)公の墓碑


◆十一代氏共(うじたか)公の墓碑


◆戦争により多くの墓碑が失われたため、作り直された新しい墓碑が目立つ。
しかし、きれいに整備され、立ち並ぶ墓碑群は壮観で、素晴らしい大名の廟所であった。

以上
  


Posted by ふなチャン(Y)  at 14:21Comments(0)武将のお墓参り

2017年10月17日

「中津川市苗木遠山史料館」&「苗木遠山家廟所」 (武将のお墓参り26)

<美濃国ゆかりの武将のお墓参り> 2017.10訪問
「中津川市苗木遠山史料館」と「苗木遠山家廟所」

★★中津川市苗木遠山史料館
岐阜県中津川市苗木2897-2、月曜休館(月曜日が祝日の場日は翌日)、9:30~17:00

◆史料館は、苗木城の麓に建っている。雲林寺の塔頭があったところだそうだ。
中世、戦国時代から明治時代初期に至る苗木遠山家の資料を中心に展示している。
苗木城跡の探訪前や、苗木藩の歴史を知るには、ぜひ訪れたいところだ。

◆入館すると、チラシ「苗木遠山史料館」と「苗木城跡(6タイプの石垣探索などを記載)」をいただける。
展示品の中でも苗木城模型は、立体的で城の造りがよくわかる秀作である。
写真撮影可なのもうれしい。(展示の一部は写真撮影可)


◆展示室に、「苗木城見取図」「中世・近世の苗木領主(領主名一覧)」
「激動期の苗木(苗木藩の幕末、廃仏毀釈)」の持ち帰り用資料が置いてあるのもうれしい。
パンフレット「国指定史跡苗木城跡」「中津川観光ガイドマップ」なども置いてある。

◆2階への階段の壁には、歴代苗木藩主の肖像画の写真が展示してある。
写実的で藩主の個性ある姿を知ろことができる。

◆2階では、「特別展 ふるさと中津川の先人 前田青邨」展(2017年10月7日~11月5日)が
開催されており、青邨画伯の日本画や天井絵、「皇居・石橋の間」の下絵などを鑑賞できた。

◆入り口付近に、苗木藩などについて書かれた書籍・資料も多数揃えてある。
時間があればゆっくり読みたかった。

★★苗木遠山家廟所(雲林寺跡)
岐阜県中津川市苗木2875、苗木遠山史料館駐車場から南へ100m、
西側にある「高森お霊屋墓地」の一角に苗木遠山家廟所がある。緑色の屋根の東屋が目印だ。


◆東屋と大きな石の間の道を入った所が「高森お霊屋墓地」である。


◆入口に案内板があり、次のように記されている。


『高森お霊屋墓地は、江戸時代に苗木領を支配した大名遠山家とその家臣の墓地です。
初代大名遠山友政は慶長19(1614)年に菩提寺の雲林寺(臨済宗 墓地の東北部に跡地)を創設し、
この谷あいに墓地が拡充されました。

苗木藩は1万521石(後に1万21石)の小藩でしたが、領主の国替えがなく、
遠山家一系で明治を迎えたので、墓地はそのまま江戸時代の苗木藩の歴史を映しています。

明治3(1870)年、廃仏毀釈の断行で雲林寺は廃寺となりました。
幸い雲林寺過去帳は現存しており、墓碑銘と併せて家臣のルーツを知る貴重な手掛かりとなっています。

なお、「苗木明細記」によると、江戸時代、家臣の墓地は「卵塔墓(らんとうば)」と呼び、
遠山家の墓所は「霊屋(たまや)」と呼びました。
(廟所の図面も記載してあり、墓碑と墓主名がわかる。)』

◆通路を進むと左奥に石垣が見える。


◆石垣の上が廟所で、手前の階段が廟所への道となる。


◆少し進むと、右手の一段上がったところに廟所があり、藩主と家族の墓碑群が立ち並ぶ。合掌



◆正面奥の中央が初代友政公の墓碑(右側)。立派だ。


◆右が二代秀友公。


◆右が三代友貞公。


◆左が四代友春公、右が五代友由公。


◆右が六代友将(ともまさ)公。


◆左が七代友央(ともなか)公、右が十二代友禄(ともよし)公。


◆右が八代友明(ともあきら)公。


◆左端が九代友清公。


◆右が十代友随(ともより)公。


◆左が十一代友寿(ともひさ)公。


◆他に明治以降の十三代友悌氏、十四代友郷氏、十五代健彦氏の墓碑もある。

◆廟所は、きれいに整備されており、案内板によりどなたの墓碑かわかる。
大変良い大名墓地であった。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:11Comments(0)武将のお墓参り