2017年12月08日

福井県越前町<剱神社> 織田信長公ゆかりの地

<織田信長公ゆかりの地> 2017年11月
織田信長公ゆかりの地である「越前町織田」を訪ねた。ここでは、「織田」を「おた」と読む。
①剱神社
②織田文化歴史館
③織田信長像

★★「剱神社」 福井県越前町織田113-1


◆広い境内の入口は3ヶ所、南側・東側・北側にあるが、赤い鳥居があるのは南側だ。
赤い木造の鳥居には、青い額が掛かる。美しい鳥居だ。
鳥居のはるか先に拝殿が見え、その奥に本殿がある。


◆拝殿に向かう途中、右側には立派で趣のある社務所が建つ。


◆境内に案内板「剱神社由緒略記」があり、次のように記されている。
『剱神社由緒略記
御祭神 素戔嗚大神(すさのおのおおかみ)、氣比大神(けひのおおかみ)、忍熊王(おしくまのみこ)

社伝によれば、座ケ岳の峰に祀られていた素戔嗚大神の御神霊を 
第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王がこの地に斎き祀られたと伝えている。

即ち、神功皇后摂政の頃、忍熊王が当地方の賊徒討伐にあたり、素戔嗚大神の御神助を戴き、
無事平定できたことに対し、神恩報謝のため織田のこの地に社を営み剱大神と称え、
その後、王が薨去されるや里人はその徳を慕い、主神素戔嗚大神に配し祀った。

奈良時代には祈願の霊場として朝廷をはじめ多くの人々から篤い信仰を受け、
殊に所蔵する国宝の神鐘は第四十九代光仁天皇が白壁王と申されていた頃、
弓削道鏡の野望を砕くために当社に大願が掛けられ、成就の御礼として御奉納戴いたといわれている。

また、武門にあっては平重盛をはじめ、朝倉・織田・徳川・松平の諸将の尊崇が篤く、
特に織田信長は氏神として崇め、格別の信仰をもって神領を寄進し神社を保護した。

江戸時代の末には伏見宮の御祈願所に定められ、拝殿は伏見宮の御勧進によって造営された建物で、
明治三十四年には県社に、昭和三年には国弊小社に昇格した。』

◆拝殿に向かう途中、左側に石碑「戦国武将 織田一族家発祥地」が建つ。


その石碑の裏には、次のように刻まれている。
『剱神社と織田一族
日本一の大武将信長公を始めとする織田一族の発祥の地は、織田の地であることは広く世に知られている。
先祖は剱神社に代々奉仕の神官忌部氏である。

室町時代の越前の守護大名は斯波氏である。この斯波氏と織田氏とが主従の関係にあり、
応永七年(一四00)時の守護大名斯波義重が尾張の守護を兼任することになり、家臣の織田氏も尾張に赴き、
後 守護代として斯波氏に代わって統治する。

応仁元年(一四六七)に応仁の乱が起り、戦国乱世へと突入する。
織田氏も次第に勢力を伸ばし、ついに尾張の大名となる。

戦乱の真只中に一人の傑出した武将が出現する。
天下布武を標榜し、乱世の平定に立上がり、天下統一を成しとげんとした織田信長である。
新時代を創成し、近代日本の基礎を築いた人である。

又、剱神社に対する崇敬心は篤く、織田の地を出て百七十有余年、
尚一族の氏神と崇め、社領を安堵し、保護している。

又、一族の中で特筆すべきは、津田近江守正路なる人である。
幕末、鎖国か開国かで国論が二分する動乱の中、箱館奉行の職で外国奉行を兼務し、
開国派として積極的に開国を推進し、明治の御代、日本が大躍進をとげる道を開いた一人である。

津田家は信長公の祖父信定公の兄、織田秀敏公(津田玄蕃●)を始めとし、代々津田姓を名乗る。
徳川時代旗本三千有余石の禄高をうけ、●●の要職の外、勘定奉行、大目付を務めた家柄である。

昭和五十九年は信長公が 備後守信秀公の嫡男として生まれて四百五十年に当り、
之を記念し、織田一族の偉業、遺徳を称え、由縁深い剱神社境内の一角に 
戦国武将 織田一族発祥地の石碑を建立し、深いつながりを永久に伝えるものである。

昭和五十九年十月吉日 剱神社宮司 ●●●●●
石碑建立寄進 津田近江守直系子孫 東京都中野区 津田●●』

◆立派な拝殿は杉林の中に厳かに建っている。


◆拝殿の屋根は、入母屋造りと唐破風の複合型で美しい。


◆本殿も立派で、美しい建物だ。


案内板があり、次のように記されている。
『剱神社本殿 県指定文化財

剱神社本殿は、長寛二年(一一六四)頃に建立されたといわれ、
その後、焼失、一部解体修理、屋根の葺替えを重ねてきた。

現在の本殿は、寛永四年(一六二七)に再々建されたものである。
この本殿は、高さ一メートルほどの基壇の上に建てられ、亀腹は青色切石を使っている。

屋根は入母屋造り、杮葺きで、千鳥破風が主棟と同じ高さで前方に突出し、
さらにその直下に唐破風を持つ向拝が設けられている。

千鳥破風や唐破風をもつ屋根は、「織田造り」と称され、江戸時代初期の秀麗な姿をとどめている。』

◆「小松建勲神社」の小社が、拝殿前の右側に建つ。(右側)


脇にある案内板に次のように記されている。
『小松建勲神社由緒 御祭神 平重盛公、織田信長公

平重盛公は小松殿と申し、忠義の至誠に厚い武将であります。
焼失した剱神社の社殿の復興を行うと共に、広大な領地を寄進し、深く信仰致しました。
後世里人は公の徳を称え、小松殿として神霊をお祀りしました。

織田信長公は先祖が剱神社の神官であり、その子孫であることを自覚し当社を手厚く保護し、
田地凡そ千四百九十石を寄進して領民を安堵しております。

柴田勝家が当社に差し出した諸役免除状という文書に「当社の儀は、殿様の御氏神の儀に候えば、
いささかも相違あるべからずの状・・・」と記されております。氏神様として信仰したことを知ることが出来ます。

今日多くの人達が信長公の功績を賛仰し、御加護を預かんと全国から参拝に訪れる人が多くなりました。』

★★「織田文化歴史館」
◆剱神社の北隣りに「織田文化歴史館」があり、昔の社殿などの配置が判る模型が展示されている。
今でも広いが、昔はさらに広大な境内で、三重塔のある神宮寺「劔御子寺(織田寺)」も建っていたことが判る。


訪れた時には、企画展「異人探求 泰澄十一の疑問展」を開催中で、織田氏についての展示はわずかでがっかり。

★★「織田信長像」
◆剱神社の東方、T字路の西北角に「織田信長像」が建っている。


信長公は、高い台座の上で、威風堂々としたお姿だ。高名な彫刻家「北村西望氏」作である。


以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 17:49Comments(0)武将のお墓参り