2018年07月23日

岐阜県関市迫間<大雲寺> 旗本迫間大嶋家墓所 (武将のお墓参り 39)

2018.7.18訪問 
<美濃国ゆかりの武将のお墓参り>
★(迫間)大雲寺 岐阜県関市迫間1184
旗本「迫間大嶋家」の菩提寺・歴代墓所(初代光俊公~七代義順公)


◆訪れた7月18日は、迫間大嶋家初代(雲四郎)光俊公の命日で、
毎年「十六善神祭」が行われ、寺宝の公開と法要がある。

◆大雲寺は、関市内中心部にもあるが、そちらは大嶋雲八光義公(光俊公の父)の菩提寺・墓所である。
こちらは、関市の東南部に位置し、周りは山の静かな里である。

◆寺の周りに「大嶋雲四郎」ののぼりが立ててあり、
境内入口に「十六善神祭」などのポスターが掲示してあった。


◆今年の「十六善神祭」の内容は、次の通り。
13:00~13:30 ミニコンサート「クラビノーバ演奏で先祖を偲ぶ」
13:30~13:40 解説「豊中市大島町 大島鳩恩会来訪と六代目義苗公」
13:40~14:40 歴史講座「大嶋公と美濃の武将たち」
14:40~15:00 大嶋公供養、15:00 お餅配り

◆本堂で、寺宝の「十六善神」と「十六羅漢」の軸、六代義苗公愛用の鎧兜が公開され、
間近で拝見することができた。

十六羅漢は、個性的な姿でユニークだ。


◆十六善神は、雷除けに御利益があるそうで、手作りのお守りや御札を販売していた。
落ちないということで、合格祈願の受験生も求めるそうだ。

◆本堂には、大嶋雲八光義公(光俊公の父)と迫間大嶋家歴代の御位牌が祀ってあり、
本日の司会を担当される酒井氏(関市甲冑同好会)の案内で拝見することが出来た。

◆本日は、大嶋雲八光義公と大嶋雲四郎光俊公(光義公の三男、迫間大嶋家 旗本初代)の
御位牌は、ご本尊の前に並べてあった。合掌。


◆他の方の御位牌は、ご本尊の左側にあり、6段に並んでいた。合掌。


◆本堂の壁に、「大嶋家系図」や「大嶋雲八光義公」「大嶋雲四郎光俊公」他の略歴が掲示してあった。
系図などの一部史料は配布され、持ち帰ることが出来た。ありがたい。



◆本堂のすぐ左手に大嶋家歴代の墓所があり、本堂からも立派な墓碑を見ることが出来る。


◆墓所へ行くには、本堂左に建つ観音堂の左の3段の石段を上る。


◆観音堂の後ろに回り、突き当りの山際が迫間大嶋家の墓所である。


◆立派な墓碑が3列に並ぶ。合掌。(境内も墓所もきれいに整備されている。)
当主たちの墓碑は上段で、他の墓碑よりも立派だ。


◆前列右端に石柱で囲まれた墓所があり、真ん中の石柱に「光重公墓」と刻まれている。
これは、大嶋光俊公(別名は光重)の墓である。囲いの中に墓碑はなかった。


◆上段の当主たちの墓碑は、9基並んでいる。
右から順に、七代義順公(よしのぶ、高勝院殿)、二代義治公(よしはる、大久院殿)、
初代光俊公(みつとし、巨積院殿)


◆次(右から四番目)は、大嶋雲八光義公(大雲寺殿)の墓碑である。


◆次は、二代義治公の弟光隆公(養浩院殿)、三代義雄公(よしお、性圓院殿)、
四代?の室(妙成院殿)、四代義高公(よしたか、大智院殿)、五代義敬公(よしゆき、大通院殿)、
六代義苗公(よしみつ、法名は削れて判読不可)である。


◆本日は縁あって、「大嶋雲四郎光俊公」の401回忌法要に参加することが出来た。
寺宝なども拝観できた。関係者の方々に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 22:35Comments(0)武将のお墓参り

2018年07月16日

岐阜県羽島市<願教寺> 稲葉山(岐阜)城主「斎藤龍興公」墓所その2 (武将のお墓参り38)

2018.7.16訪問
≪宝積山 願教寺≫ 岐阜県羽島市足近町市場71
織田信長公に追い出された斎藤龍興公(道三公の孫)のお墓参りをした。


◆『足近町歴史点描』に次のように記載されている。
【・稿本美濃誌には次のように記している。

「天正年中、斎藤竜興が石山で雑兵に混じって信長と戦った時に、
勢州長島願教寺第三世了願もまた石山にあって竜興と好を結んでいた。

天正八年信長と石山の和解が出来て共に美濃に帰り、当(足近)中島に住んだ。
天正十年五月五日、竜興が自刃したので了願は、佐波村字本養に本養寺と云う
元天台宗の寺があり、荒廃して塔頭誓浄坊だけが残っていたのと生国の願教寺を
移し合せて一宇を建立し、願教寺と称した。同寺に斎藤系図が残されている。

境内に竜興のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)あり。
「華貞院竜興 天正十年五月五日」

・寺に斎藤義竜の位牌「円城院殿釈義竜 永禄四年五月十六日薨」と記され立派。

・竜興の墓は二説ある。羽島説では「越前朝倉氏滅亡の時、竜興自身は甲冑を
臣下に着せ替えて戦死とみせかけ影武者となる。やがて石山において再び信長と戦う。

願教寺第三世了願を伴い美濃国直道村(現 足近町直道)へ来る。
この地にてひそかに再興の機をうかがうが、事ならず。天正十年五月五日自決する。
よって、この願教寺に墓がある。」

墓が小さく作られているのは、戦国の世において敵側の目をはばかるためと言われている。】

◆『羽島市史』にも同様の記載がある。そこで、願教寺を訪れることにした。
お寺は、神社の隣りにひっそりと建っていた。

◆ご住職にお会いしてお話を聞くことができ、
龍興公の五輪塔や斎藤氏三代の御位牌を拝見することが出来た。
そして、写真撮影とブログ掲載も快く了解いただいた。

◆ご住職と一緒に本堂へ入った。中央にご本尊、左に斎藤氏三代の御位牌が並んでいた。
ご本尊に合掌。

◆御位牌の後方には、東洋大学の井上氏書の掛軸「前金華山城主 斎藤家菩提所」と
「源平 洲俣合戦古跡」が掛けてあった。


◆御位牌は、右端が斎藤義龍公で表に「圓城院殿釋義龍」、
裏に「永禄四年五月十六日薨 謹菩提所願教寺納之 齋藤氏嫡流」と記されている。

真ん中が龍興公で表に「華貞院殿釋龍興」、裏に「天正十年五月五日薨 菩提寺納之 齋藤氏一族」、

左端が小兵衛義仁公(龍興公の子)で表に「圓融院釋義仁」、
裏に「寛永元年六月十二日卒 爲小兵衛菩提願教寺納之 齋藤氏」とある。



御位牌は、後世になって子孫の方が作ったらしい。

◆龍興公のものと伝わる連五墓碑(小さな一石五輪塔)は、
盗難防止のため本堂内に安置されており、奥から出して見せていただいた。
高さ35センチ程の大きさであった。合掌。


◆当寺は、大正時代に現在地へ移転。
旧地には龍興公の墓である塚があり、その上に大きな松と一石五輪塔があったそうだ。
移転後は農地となり、全て跡形もない。

旧地の墓地から骨片を集め、現在地の鐘楼南の「南無阿彌陀佛」石碑下に納めたそうだ。合掌。


◆ご住職の親切なご案内のおかげで、本では分からない事を知ることが出来た。
また、ご夫人の冷茶の御接待がありがたかった。ご縁に感謝。

以上  


Posted by ふなチャン(Y)  at 20:02Comments(0)武将のお墓参り