2018年12月02日

岐阜県山県市<中洞白山神社>明智光秀公の墓 (武将のお墓参り40)

美濃国ゆかりの武将のお墓参り「明智光秀公の墓」
2018.12.2(日)参拝


◆岐阜県山県市中洞の(中洞)白山神社に「明智光秀公の墓」がある。
国道256号の美山第一トンネルを北に抜け、右(東)に曲がると直ぐに細い旧道に入る。
旧道を左に進み、国道下を潜る。


ナビなら、「山県市中洞932-2、ウエルカモ美山(旧美山バルバリー)」を目標にし、
その前の道を北に進むと良い。

◆突き当りの山麓に白山神社がある。


◆橋を渡ると神社の境内に入る。午前9時半頃に到着、さほど広くない境内に車を停めた。


◆神社の入口左側に案内板「明智光秀公の墓」が立っている。


そこには次のように記されている。
「明智光秀公の墓(古文書を要約)
この地、中洞古屋敷白山神社の一角にある高さ一0六cmの石塔と高さ一一二cmの五輪の塔は、
まさしく明智光秀公の墓なのです。

天正十年(一五八二)山崎の合戦で羽柴秀吉に討たれ死んだのは、光秀の影武者荒木山城守行信でした。
光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えんと荒木の「荒」、恩義を深く感じての「深」で、
自らも荒深小五郎と名乗り、西洞寺の林間に隠宅を建て、乙寿丸と共に住んでいました。

その後、光秀は雲水の姿となって諸国遍歴に出たのですが、
十八年後の慶長五年(一六00)関ケ原の合戦の時、東軍に味方せんと村を出発しましたが、
途中根尾村の藪川の洪水で馬と共に押し流され、おぼれ死んだため、
死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬しました。

以来この地には荒深姓が多く、今でも年二回の供養祭を行っています。

光秀公の義弟、明智孫十郎直経の墓は、この地より国道に出て一Km北へ行ったところに
ありますのでお帰りの際、お立ち寄り下さい。  山県市」

◆案内板の右後ろに「光秀公ゆかりの うぶ湯の井戸跡」とあり、木製の井戸枠がある。


◆境内入口の右側には、木製の案内板があり、
「荒深小五郎の名でこの地に住んでいた 明智光秀公の墓⇒ 
供養祭 四月第二日曜日、十二月第一日曜日」と記されている。


◆境内に数台の車が停まっており、ちょうど地元の方たちが供養祭の準備をしているところだった。
お忙しいとは思ったが、声をかけたところ、チラシ「明智光秀公ゆかりの地を訪ねて」をいただき、
お話を伺うことも出来た。感謝。


◆供養祭の準備をしている方たちは、光秀公の子孫である荒深氏だそうだ。
供養祭は午後二時からで、私は都合がつかず参加できなかった。残念。
なぜ年二回も供養祭があるか尋ねたが、よくわからないそうだ。

◆供養祭が行われる参集殿


◆参集殿の左側に建つ「阿弥陀如堂」の扉が開いており、中の宝物を見せていただいた。


◆建物正面の壁に「阿弥陀堂の由来」が貼ってあり、次のように記されている。
「阿弥陀堂の由来
天正十七年(一五八七)光秀公の母が明智頼武(光秀公の弟)に土岐祖先の菩提を弔うため建立した。
母は自ら仏門に帰依し禅の道に一生を捧げ、天文十一年(一五四二)に大源寺を建立し自ら庵主となり、
後に弟子の月定宗輪禅尼に譲り仏光山西洞寺に入る。(庵の庭)

阿弥陀三尊 一、左尊 木造観音菩薩立像で観音像は両手に蓮台を捧持している姿である
一、中尊 木造阿弥陀如来立像 
一、右尊 木像勢至菩薩立像で勢至菩薩は合掌している姿である 

阿弥陀は観音と勢至を伴って両脇侍として三尊をなしており、
観音は宝冠の中に化仏をつけている、勢至は宝冠に宝瓶をつけている。

阿弥陀如来は西方極楽浄土に往し、四十八の大願がありてその一つである往生願は、
「この如来に念仏するものは必ず極楽浄土へ往き無限の生をうけることができる」と約束されている。
これは所謂来迎菩薩の相という。

また、光秀公は幼少の頃より聡明にして文学軍学兵法を学び、敬神の念も厚く白山神社(氏神)を
崇敬していたため、この白山神社は学問並びに出世の神様と言い伝えられている。」

◆阿弥陀堂内部には、正面に阿弥陀三尊像、
左側面に明智光秀公のご位牌や肖像画などが祀られていた。合掌。(了解を得て撮影)
10時半頃には供養祭の準備が終わり、阿弥陀堂の扉は閉じられ、地元の方たちは一旦帰宅された。


◆「明智光秀公の墓」への入口は、境内入口左にあり、案内板と石柱「灮秀墓」が立っている。
参道沿いには幟「明智光秀公の墓」が立ち並んでいる。


◆参道を進むと右に直角に折れ、緩い坂道となる。杉林の参道の突き当りに墓所が見えてくる。


◆墓所は整備されおり、墓碑と板碑が並んでいる。合掌。


◆明智光秀公の墓碑は、左に五輪塔、右に宝篋印塔。
左後方に石柱があり、「惟任将軍日向守光秀公之墓」と刻んである。


◆板碑には「灮秀卿古墳縁由 當國ノ太守・・・」と桔梗塚の由来を記してある。


◆いただいたチラシは旧美山町(合併して山県市)の発行で、随分昔に作成されたものだ。
表面には「光秀公は山崎の合戦で死んだのではなく、実は、そのとき死んだのは影武者であり、
ひそかに郷里中洞に落ちのびて荒深小五郎の名で住んでいた。」とある。


◆裏面に「明智光秀公ゆかりの地 美山町」として、次の記載がある。
「明智光秀は、美濃国美山町中洞の古屋敷で生まれたのである。

光秀公の遠祖は、土岐氏の流れを組む明智氏の一族で、
土岐美濃守の臣土岐四郎基頼と中洞の豪族中洞源左衛門の娘お佐多(のちに松枝と名乗る)との間に
大永六年(一五二六)八月十五日、長男十兵衛尉として生まれたのである。

また、光秀公の母が懐妊していたとき、岩の上に立って清流に水ごりして、
天下に将たる男子か然らずんば秀麗の女の子を授け給えと祈った行徳岩も
西武芸地内井ノ口用水の下方武儀川左岸にある。

十兵衛尉生まれてから母は中洞古屋敷にある白山神社を崇敬し、学問並に出世を祈願した為、
十兵衛尉は幼少の頃より聡明であったと言われている。
以来この地の山中にひっそりとこもった白山神社は学問と出世の神として地域の人に崇められている。

時を遷て、十兵衛尉七歳のとき、父基頼は病死してしまった。
このとき祖父中洞源左衛門は、亡き基頼の遺托をうけ、美濃国可児郡の明智城に伴い、
明智光綱に預けて,軍学兵法を学ばせ、土岐家の再興を図ったのである。

光綱は、預かった十兵衛尉の利発賢明を喜び、軍学兵法を教えるかたわら
文学をも学ばさんと多治見虎渓山永保寺に通わせたのである。

やがて光綱は、祖父源左衛門に懇願して十兵衛尉を養子として迎えたが十一歳のとき、
光綱は病死してしまった。そのため光綱の弟光安が城主となって、亡兄の志を継ぎ、
十兵衛尉を光綱の後継者として養育に心がけ元服して明智光秀と名づけ、後の日向守光秀となったのである。

明智氏は、土岐氏が衰えてからは、斎藤道三に従い、その子義龍と明智氏は君臣水魚の交わりとなった。
光秀も道三の保護指導をうけて勉学にはげむかたわら戦術兵法、鉄砲術をも伝授し、
また茶道についても京都仕込みの道三から学んだと言われている。

一方斎藤道三は、岐阜城を乗っとり息子の義龍に譲り自分は鷺山城に移り隠居していたところが、
義龍が謀反を起して父道三を攻め殺してしまった。

それを知った明智光安は怒って義龍と絶交するとの使者を送ったため義龍は、光安の態度に立腹して、
三千余騎の兵を立てて長山城を攻めたてた為、「もはやこれまでと知った」光安は、
光秀に「後日明智の家名をあげるため、ひとまずここを落ちのびよ。そしてわが子弥平治光春(秀満)と
甥の次郎光忠をたのむ」と言い残して城と運命を共にした。ときに弘治二年(一五五六)九月二十六日であった。

光秀は逃れて揖斐郡谷汲村府内に身をよせたが、やがて京都嵯峨の天龍寺へ落ちのびた。
ここに落ち着いた光秀は光春を伴い諸国修業の旅に出た。

北は越後の地で上杉謙信の弓矢の道を学び、駿河では今川義元の仕置を学び、
さらに伊勢から泉州堺に出て学識経験を積むこと六年、永禄八年(一五六五)三十八歳で
越前一乗谷城主朝倉義景に仕官し、十五代将軍足利義昭にも仕官、

ついで永禄九年(一五六六)信長に仕官して順次出世、
近江坂本城十八万石、丹波亀山城三十六万石併せて五十四万石の大名に累進した。

時を経て、天正十年六月三日(一五八ニ)羽柴秀吉との山崎の合戦に光秀利あらずして勝龍寺に引き上げ
最後の戦に末子の乙寿丸を伴い共に自害しようと近州観音寺に待期していた。
その時家臣の荒木山城守行信たちが馳せ参じ、
「まだ最後の時にあらず、此の処を一時のがれて再興を謀り給え」と光秀の脱げ捨てた鎧冑に具足を着て
身代わりとなり家来共々敵中に討ち入りて華々しく戦った。

山崎の合戦で、光秀は死んだのではなく、乙寿丸、中洞又五郎と共に百姓姿となって、
ひとまず洛中し大徳寺で味方の最後を見届けていた。
翌日、山城守は光秀の影武者となって山崎で討死した。

光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと自ら恩義を深く感じて、
荒深小五郎と名乗り中洞又五郎に導かれ郷里美濃国中洞に帰って隠宅を建て乙寿丸と共に住んでいた。

天正十七年(一五八九)乙寿丸は十五歳に成長し荒深吉兵衛光頼と名乗った。
光秀は後々のことを中洞又五郎に托して雲水の姿となって諸国遍歴に出るかたわら
羽柴秀吉の敵と味方の大名を探しまわった。

慶長三年(一五九八)春江戸に至り、ひそかに家康と逢い諸大名の様子を談ずると家康は大いに喜び、
光秀の子孫を大名に取り立てることの約束をして帰国した。

後の慶長五年(一六00)八月関ケ原の合戦に東軍に参加するため一族郎党を引きつれて出陣の途中、
おりからの増水した藪川(根尾川)で馬共に押し流されて水死した。
時に慶長五年九月十五日、七十五歳であった。

その遺骸を又五郎らが持ち帰り中洞古屋敷に葬った。これが「桔梗塚」と呼ばれる明智光秀公の墓である。」


◆昔は荒深氏の住む民家が神社周辺に何軒かあったが、今は少し離れた所に住んでいるそうだ。
昔は絵馬を授与していたが、今は境内に掛けられている古い絵馬で偲ぶしかない。

◆境内入口右側に「光秀公が生まれた庵の庭跡地⇒ 山中」の案内標識がある。
その光秀公の母ゆかりの地は、神社の北東の山上にある平地で、登山道があって行くことが出来るそうだ。
矢印の向きは間違っている。


以上


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Posted by ふなチャン(Y)  at 21:45 │Comments(0)武将のお墓参り

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